私は生まれつき感受性が強いと自覚しています。人のことは分かりませんが、こういう性質はフツー大人になると弱まるものなんですか?
もう、老境に差し掛かっているんですけど、これまで弱まったことなどあるかなあ、と思いますし、老いてますます盛んになってきている感すらします。
いつも感情にすぐ引きずられ、囚われてしまうのです。これは、自分の意志で何かに囚われる、ハマる(それも盛んなことですが)ということじゃなくて、否応なしにそうなってしまうことであるのは言うまでもありません。
嬉しいこと、楽しいことというのは、すぐ忘れてしまいますが、特に悲しい、可哀想な事象に接すると、ずっとそのことが頭から離れなくなってしまうのです。
こういう性質というのは、精神的道を歩む上においては、致命的な欠陥なのかもしれません。ことに修行に勤しむ上には向かないと言える...そう、だからしてこなかったのですってi...
こんなことで、よく"思いを超える"だの、"思いから離れる"なんてこと言ってられると思いますよ。
しかし、ご存知でしょうが、自分から"超える、離れる"とか"超え、離れなければいけないi"、なんてこと一度も言ったことありません。
ここでは、"自ずからそうなる"、ということが基調になっているのです。
"いつまでも囚われてちゃいけないi"、と人は言うかも知れませんが、そうしたくてしてる訳じゃない、ってこと分かんないのでしょうか?
そういう自ずから備えられている、持ち前のこの性質を無闇に否定したりすると、私の本来性が分からなくなり、苦しみを作り出すだけでしょう。
そうしたくてしてる訳じゃないのですが、心根の方では、その性質を変えようとしない、それをどっかで"良し"としているところがあるようです。
"そのままでいいi"...これが持ち前というものではないでしょうか?
そして、否応なしに情動的なものに引きずられるということは、ある意味こっちの思惑を超えてそうなる、ってことではありませんか?
そう、だから自然に超えられてしまうのでしょう。ゆだねるっきゃないことから、そのように導かれてしまうのですi
その契機には、しばしば何か自分の情動を超えた、もっと深い情動的なものに触れるような感じを覚えます。
それは元より、思われた感情、情動というものではありません。言葉に表せないものですが、その根っこにあるようなものです。
情動的なものに囚われていたはずが、いつの間にか、大きな、とてつもない情動みたいなものに捉えられる、包まれてしまう...もう、ダメ...泣けてきそうi...
無限の哀れみというか...そうですね、愛というものはこういうものから感じられるのです。そこには"情"というものから通常、想起される囚われ、もつれるようなものは何もありません。
情的な囚われは、自ずと"超情"的なものに化されてゆく...これは、私の持ち前の性質に依るからこそと言えるのです。
神に感情があるのかどうかは分かりませんが、思考というものがそうであるように、人間的に相対化されない、その根源的なものはあるように感じざるを得ません。
というより、人間に本来的に備えられているもの、人間の持ち前としてあるものは、すべて神的なものにその淵源があるのでしょう。
だから、それらは本来何一つ否定さるべきものは無いのでしょう...。
もう、老境に差し掛かっているんですけど、これまで弱まったことなどあるかなあ、と思いますし、老いてますます盛んになってきている感すらします。
いつも感情にすぐ引きずられ、囚われてしまうのです。これは、自分の意志で何かに囚われる、ハマる(それも盛んなことですが)ということじゃなくて、否応なしにそうなってしまうことであるのは言うまでもありません。
嬉しいこと、楽しいことというのは、すぐ忘れてしまいますが、特に悲しい、可哀想な事象に接すると、ずっとそのことが頭から離れなくなってしまうのです。
こういう性質というのは、精神的道を歩む上においては、致命的な欠陥なのかもしれません。ことに修行に勤しむ上には向かないと言える...そう、だからしてこなかったのですってi...
こんなことで、よく"思いを超える"だの、"思いから離れる"なんてこと言ってられると思いますよ。
しかし、ご存知でしょうが、自分から"超える、離れる"とか"超え、離れなければいけないi"、なんてこと一度も言ったことありません。
ここでは、"自ずからそうなる"、ということが基調になっているのです。
"いつまでも囚われてちゃいけないi"、と人は言うかも知れませんが、そうしたくてしてる訳じゃない、ってこと分かんないのでしょうか?
そういう自ずから備えられている、持ち前のこの性質を無闇に否定したりすると、私の本来性が分からなくなり、苦しみを作り出すだけでしょう。
そうしたくてしてる訳じゃないのですが、心根の方では、その性質を変えようとしない、それをどっかで"良し"としているところがあるようです。
"そのままでいいi"...これが持ち前というものではないでしょうか?
そして、否応なしに情動的なものに引きずられるということは、ある意味こっちの思惑を超えてそうなる、ってことではありませんか?
そう、だから自然に超えられてしまうのでしょう。ゆだねるっきゃないことから、そのように導かれてしまうのですi
その契機には、しばしば何か自分の情動を超えた、もっと深い情動的なものに触れるような感じを覚えます。
それは元より、思われた感情、情動というものではありません。言葉に表せないものですが、その根っこにあるようなものです。
情動的なものに囚われていたはずが、いつの間にか、大きな、とてつもない情動みたいなものに捉えられる、包まれてしまう...もう、ダメ...泣けてきそうi...
無限の哀れみというか...そうですね、愛というものはこういうものから感じられるのです。そこには"情"というものから通常、想起される囚われ、もつれるようなものは何もありません。
情的な囚われは、自ずと"超情"的なものに化されてゆく...これは、私の持ち前の性質に依るからこそと言えるのです。
神に感情があるのかどうかは分かりませんが、思考というものがそうであるように、人間的に相対化されない、その根源的なものはあるように感じざるを得ません。
というより、人間に本来的に備えられているもの、人間の持ち前としてあるものは、すべて神的なものにその淵源があるのでしょう。
だから、それらは本来何一つ否定さるべきものは無いのでしょう...。