人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どこに居ようと神の道

2022-01-28 11:57:30 | 求道、探究
悟りとか神と一体化するには、その前の段階で霊界や幽界を通らなければならない、と言っている人が居ます。
もっと細分化されたものでは、エーテル界、アストラル界、コーザル界...などの段階を経なければならないとか...これらは呼び方が違うだけなのか、元々異なった世界なのか、てんでに分かりません。大体、そういう種々の異界があるってこと自体分からないのです。
"あなたが人生の裏側と呼んでいるのは、そのどの世界に当てはまるのですか?"、って...知るかってんですよi
私が分からないだけで、こういう段階的な道というのは、実際に歩まれた人たちには意味があるのでしょうから、私は無闇に否定はしませんが(否定的な人は居ますよ)、誰しもが通らなければならない、とするのであれば否定的にならざるを得ません。
最近の悟り系スピでよく聞かれる、突然分かっちゃった人たちからは、そういうプロセスのことはほとんど聞かれません。要はそういう質があるとか、因縁があるかどうかの違いでしょう。
ただ、私が一つ、このOO界のうちで、意識が向かい、留まりそうなのは、"霊界"というものでしょうか?...霊なる世界i...他のどの異界の呼び名よりも包括的な響きがあります。といって、そこで霊人とか霊的な風景が目に見えるように映し出されるという訳じゃありません。
幽霊もどきとか幽界のなんちゃらとかは、もっとお呼びではありません。
霊なる世界に移行するということで、私がリアルにイメージ出来、感じ、言い表したいことは、"思いが超えられる"、ということですi
従って、そこで目に見えるように、思い描かれたように何かが映し出される、ということはないのです。
言い換えると、見ている私と見られている対象とが分離されない、ということです。
この意味で人生の裏側とは、この包括的な思いを超えた、霊なる世界、と言ってもいいかもしれません。だけど、それは下から何段目の世界か?、って言われても...
又、種々の異界に通じたある人なんかは、それはOO界だと規定するかもしれません。何界だっていいじゃありませんかi
大事なことは、そういうものに囚われない、ということじゃないですか?
霊なる道というのは、諸々の思いから自由になる道なのですi
だから、つまるところ、諸々の異界の諸相がある、というよりも思いを超えるか、どうかというところに大きな断層がある、と言ってもいいのではないでしょうか?
そして、その断層が超えられたなら、見えない、神的な導きのままに歩まされるばかりになるでしょう。
いや、そもそもそういう導きなしに、精神的道など歩めるものではないでしょう。
あなたが仮にエーテル界に居たとして、"だから私はアストラル界を目指している"、というのはおかしくないですか?
何界に居ようと、神の導きのまま、神的なものと一如となることに意識が向けられていなければおかしいi
どの階層だろうと、最下層とされる現界(そうかどうかは知らないが)だろうと、神の光が差し込まない、神に意識が向けられない世界というのはあろうはずがないのです。あったり前の話、ここに居らずして、どこに居るのか?(私が上で言ってるような霊界と現界とは全く隣り合わせなのです)
どこに居ようと神の道は神の道...
しかし、真っ直ぐに神の方に向けられないで、OO界とか何段階だとか宇宙のシステムだとかに囚われ続けている人も居るでしょう。
これは因縁とかカルマの問題なのでしょうか?
いいや、それは本当に神そのものに向かうことを望んでいないだけでしょう...。
コメント
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