私が日頃ここで書いていることの一端を人に話すと..."あなたは四六時中瞑想や祈りに明け暮れていて、聴く音楽もヒーリング系のとかで、テレビとかもほとんど観ないのでしょう?"、などと勝手に決めつけられたりします。
ったく...笑わせないで欲しいですよi
確かに私はフツーじゃないでしょう?...そう、フツーの人より俗っぽいかもしれない...唯一読書の時間は、あの世界と関わる部分はあるかもしれませんが、それ以外はもう私の俗っぽい心を満たすもので溢れかえっている、と言ってもいいでしょう。
テレビはあまり観ませんが、毎日you tubeとか動画を観てます。猫動画、映画、ドラマ、音楽、プロレス、ボクシング(このコロナ禍の間、この関係のものがやたらと増えました)...そうそうH系のやつも...
瞑想、祈りもどきのことは毎日やると決めている訳でもないのですが、寝る前にちょこっとやったりしますかね。それも5分もやらなかったりです。眠くなるしね...
これを読まれた方は、"それでどうして、パッと意識を向けたら、神的な何かが降りてきて、愛、平安に与れる、なーんてことが起きるんだ?"、と不思議に思われるかも分かりません。
私はそういうことは祈り、瞑想三昧のうちに起きる、とはほとんど言っていないつもりです。
パッと意識を向ける、向いちゃったら...ということは、動画を観ている時も、メシを食っている時、歩いている時、勿論読書の時、寝床にある時(これが多い)、そしてこうしてPCに向かっている時は必ずと言っていいほどですが、日常のあらゆる局面で起こり得る、ということを言っているのですi
そして、その瞬間は、私が何かの"行"の枠として、意図して区切った時間で起こることよりも、はるかに得難い時間だとさえ感じているのです。
このことは、私が行うという"行"としては捉えられていない、ということなのです。
私は、このように誰よりも俗人であることを認めています。いや、そういうことを良しとしている、と言った方がいいかもしれません。
というよりも、精神世界の人間、聖人、高徳な人間であろうとするのをどっかで拒否しているようです。("それでいいんだi"、と奥の方から聞こえてきそうです)
これには、初めて人生の裏側に踏み入れた瞬間が、全く日常の真っ只中で起きた、という原体験がそのように感じさせているのかもしれません。
ともかく、私の内奥には常に、ありのままの日常がそのままで、聖なるものによって化されてゆく、という見えざるヴィジョンみたいなものが映し出されているのです。
この裏側には何ものかになろうとする私が、ありのままの世界の聖化に取って代わってはならないという意識が根付いているのかもしれません。
私は今日も性懲りもなく俗人を生きています。しかし、私の生の裏側には別の私も生き続けているのをいつも感じています。
そう、意識が向けられた時に...そして私の別なる生が顕わになる...それは決して私の表側の日常に取り込まれることの無いもの...知らず知らずに裏側の方にこっちの日常が取り込まれてゆく...聖も俗も無いすべての生に...(それでいいんだi)
ったく...笑わせないで欲しいですよi
確かに私はフツーじゃないでしょう?...そう、フツーの人より俗っぽいかもしれない...唯一読書の時間は、あの世界と関わる部分はあるかもしれませんが、それ以外はもう私の俗っぽい心を満たすもので溢れかえっている、と言ってもいいでしょう。
テレビはあまり観ませんが、毎日you tubeとか動画を観てます。猫動画、映画、ドラマ、音楽、プロレス、ボクシング(このコロナ禍の間、この関係のものがやたらと増えました)...そうそうH系のやつも...
瞑想、祈りもどきのことは毎日やると決めている訳でもないのですが、寝る前にちょこっとやったりしますかね。それも5分もやらなかったりです。眠くなるしね...
これを読まれた方は、"それでどうして、パッと意識を向けたら、神的な何かが降りてきて、愛、平安に与れる、なーんてことが起きるんだ?"、と不思議に思われるかも分かりません。
私はそういうことは祈り、瞑想三昧のうちに起きる、とはほとんど言っていないつもりです。
パッと意識を向ける、向いちゃったら...ということは、動画を観ている時も、メシを食っている時、歩いている時、勿論読書の時、寝床にある時(これが多い)、そしてこうしてPCに向かっている時は必ずと言っていいほどですが、日常のあらゆる局面で起こり得る、ということを言っているのですi
そして、その瞬間は、私が何かの"行"の枠として、意図して区切った時間で起こることよりも、はるかに得難い時間だとさえ感じているのです。
このことは、私が行うという"行"としては捉えられていない、ということなのです。
私は、このように誰よりも俗人であることを認めています。いや、そういうことを良しとしている、と言った方がいいかもしれません。
というよりも、精神世界の人間、聖人、高徳な人間であろうとするのをどっかで拒否しているようです。("それでいいんだi"、と奥の方から聞こえてきそうです)
これには、初めて人生の裏側に踏み入れた瞬間が、全く日常の真っ只中で起きた、という原体験がそのように感じさせているのかもしれません。
ともかく、私の内奥には常に、ありのままの日常がそのままで、聖なるものによって化されてゆく、という見えざるヴィジョンみたいなものが映し出されているのです。
この裏側には何ものかになろうとする私が、ありのままの世界の聖化に取って代わってはならないという意識が根付いているのかもしれません。
私は今日も性懲りもなく俗人を生きています。しかし、私の生の裏側には別の私も生き続けているのをいつも感じています。
そう、意識が向けられた時に...そして私の別なる生が顕わになる...それは決して私の表側の日常に取り込まれることの無いもの...知らず知らずに裏側の方にこっちの日常が取り込まれてゆく...聖も俗も無いすべての生に...(それでいいんだi)