人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

最初で最後の祈り

2022-02-14 09:52:08 | 祈りと瞑想
私は特定のメソッド、やり方というものは身に付かなかった、と何度も言っていますが、どっかでそういうものは方便だと思っていたからだと思います。
時、所、人によって変わるものは取り替えが効くものです。そして、本当の方便というものは、そうでないもの、その内実というものがそこに内包されているものでしょう。
内実となるものこそは、身に付くもの、身に覚えられるものと言えるでしょう。そうなれば方便からは自ずと離れてしまうものです。
そういう私でも祈りというものには親しんでいたのですが、五井先生の「世界平和の祈り」などは、集まりなどではやらされる訳で、結構親しんだものの、やはり身に付いたとは言えません。
しかし、その五井先生がどっかで言っていたのか、求道初期の頃から"みこころのままに為さしめたまえ..."、という趣旨の祈りには惹かされるものがあって、言葉に出さずとも祈って、というか祈らされていたようなのです。
こういう祈りというのは、先のはキリスト教ではお馴染みのものだし、言葉は違えど、どの宗教にもあるものです。我が国の神道では"かむながらたまちはへませ"となります。
出口聖師などは、「これを称へるものは、最後は救われる...」と述べられています。
こういう祈りがどういう"みこころ"を伝えているのかに思いを致せば...もう即座にあの御方の臨在をひしひしと感じてしまうではありませんかi
これほど普遍的で、根本的な祈りというものは無いでしょう。
まず、祈りは願い事ではない、ということが伝わる。こっちの願い、思いを神に聞いてもらうんじゃありません。神のみこころのままに...ということは...。
これは、全託へこちらを宣り出す、投げ出す、ということを表しているのです。
そして、いよいよ思考も為すことも神にお返しして、全託の道が開かれるならば...こちらには、正に"みこころのままに為さしめたまえ"という意識しか無くなってしまうでしょう。私のすべてがそうならざるを得なくなります。
もう、そこには何をどう祈るなんてものは無い、言葉も形も無い、身に付くなんてどころでもありません。
最初は、そのように祈ってみよう、というところから始まるのでしょうが、最初から"みこころのままに"、という心持ちがそこにつながるという線は既に引かれてあるのです。
そういうことを漠然と思うだけ、信じるだけだったらそれだけのこと...形だけの祈りもそれだけのこと...
だけど、神のみこころのままに、ということには、そんな中途半端な思いは入る余地はありません。といって力む必要もありません。"おまかせ"、ということは...
"神につながるにはどうしたらいいのか?"、なーんて訊かれても、それは、あなたの神のみこころ次第なんだから、アタシャ知りゃしませんよi
でも、何かの方便のつもりでこういうことを言うかもしれません。
それを方便ととるかどうかはあなた次第ですi
ある人はたとえ方便だと思っても、何だかそれでは済まないような"オソロシイもの"を感じてやろうとしないかもしれません。お話の段階で、どっかへ居なくなったりして(笑)
又ある人は理屈を超えてそれに赴くかもしれません。その人はきっと方便だとは思っていないでしょう。
どっち道、いい加減な気持ちではそこに赴くことは出来ないでしょう。"私が神なんだから祈るのは方便だ"、とか考えている私が居るか、神のみ前にあるか、どっちかしかないという道には...。
コメント
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