「ウパニシャッドは、人生が一睡の悪夢だとも、この世が不毛な空夢だとも教えていない。むしろ人生は、この世の調和というリズムと共に、ときめき、躍動している。この世も、神による、神自身の啓示なのだ」(S.ラーダークリシュナンーインドの元大統領、宗教哲学者ー「インド哲学史(上).ヴェーダーンタ哲学の源流」/文化書房博文社刊)
究極の真理とは何か?...生来から哲学的欲求と言えば聞こえはいいが、言い換えると頭でっかちのサガを抱えた私は、こういう文句には弱いものがあります。
しかし、最近の私は、いくら深遠な(そう思える)教えだろうと、現実にそのように受け取れない、すーっ、と自然と内面に入って来る感じを受けないものは、スルー(否定することではない)せざるを得ないものを感じています。
一時期の私は、ノンデュアリティの教えこそは、究極の真理だと思おうとしていたのですが...ご存じのように、この教えは主として、古来インドでウパニシャッドとかヴェーダーンタと呼ばれる思想群の主流を成している、不二一元論(アドヴァイダ)から借りたものなのです。
そこでよく知られている教えに「神のみが実在している。この世は幻想に過ぎない」というものがあります。
この教えを継承している、ラマナ.マハルシなどにも似たような言説が見られますが、これは、少し前に触れた「私は神である」という言葉と同様、微妙な言い回しの違いで、全く違う受け取り方に導かれるようなのです。
私はかように、何度か思おう、信じようとしたのですが、リアルにそう感じたことは一度もありません。
リアルに感じるものと言ったら「今日も金が無い、一体どうすりゃいいんだi」と、モロ動かし難い現実の厳しさばかりなのでした。
こうなると、もう祈るっきゃないというもの...この世が、いや神が幻想だろうとなんだろうと...
すると.."これは夢なのか?...いや、そうじゃないi....じんじんと、あの感じが雲のように立ち込め、さっきまで思っていたことが夢のように感じられて来るではないかi"
見てる景色は同じだし、厳しい現実もそのままで...何かが決定的に違うのですi...世界も、現実も神的なものと共にあるi
この物質世界も、肉体も幻想として消えてゆく訳じゃないのです。
もし、字句通りに自分の思いだけで「現実世界、肉体はないi」という教えに信従しようとすれば、それは、意念的、思念的に否定しようとすることであり、そうしようとする自分と、現実にそうならない自分とが、分裂することになりかねなくなるでしょう。
そして、その実本当に得心した訳でもないのに、観念的に分かったつもりになる...これが、偏った精神主義の陥りやすい罠と言わねばなりません。
現にあるものが無くなるのでは無い、持ち前のものが否定されるのでは無いのです。
神的なものが、私の現実に臨むことによって、現実が神的なものに変容されてゆくのです。
これを私は"化される"、と言っています。正確には思いが化されてゆくのでしょう。
なるほど神的なものに化されないものは、幻想に思える...この意味で神しか実在しないのかもしれません。
究極の真理とは何か?...生来から哲学的欲求と言えば聞こえはいいが、言い換えると頭でっかちのサガを抱えた私は、こういう文句には弱いものがあります。
しかし、最近の私は、いくら深遠な(そう思える)教えだろうと、現実にそのように受け取れない、すーっ、と自然と内面に入って来る感じを受けないものは、スルー(否定することではない)せざるを得ないものを感じています。
一時期の私は、ノンデュアリティの教えこそは、究極の真理だと思おうとしていたのですが...ご存じのように、この教えは主として、古来インドでウパニシャッドとかヴェーダーンタと呼ばれる思想群の主流を成している、不二一元論(アドヴァイダ)から借りたものなのです。
そこでよく知られている教えに「神のみが実在している。この世は幻想に過ぎない」というものがあります。
この教えを継承している、ラマナ.マハルシなどにも似たような言説が見られますが、これは、少し前に触れた「私は神である」という言葉と同様、微妙な言い回しの違いで、全く違う受け取り方に導かれるようなのです。
私はかように、何度か思おう、信じようとしたのですが、リアルにそう感じたことは一度もありません。
リアルに感じるものと言ったら「今日も金が無い、一体どうすりゃいいんだi」と、モロ動かし難い現実の厳しさばかりなのでした。
こうなると、もう祈るっきゃないというもの...この世が、いや神が幻想だろうとなんだろうと...
すると.."これは夢なのか?...いや、そうじゃないi....じんじんと、あの感じが雲のように立ち込め、さっきまで思っていたことが夢のように感じられて来るではないかi"
見てる景色は同じだし、厳しい現実もそのままで...何かが決定的に違うのですi...世界も、現実も神的なものと共にあるi
この物質世界も、肉体も幻想として消えてゆく訳じゃないのです。
もし、字句通りに自分の思いだけで「現実世界、肉体はないi」という教えに信従しようとすれば、それは、意念的、思念的に否定しようとすることであり、そうしようとする自分と、現実にそうならない自分とが、分裂することになりかねなくなるでしょう。
そして、その実本当に得心した訳でもないのに、観念的に分かったつもりになる...これが、偏った精神主義の陥りやすい罠と言わねばなりません。
現にあるものが無くなるのでは無い、持ち前のものが否定されるのでは無いのです。
神的なものが、私の現実に臨むことによって、現実が神的なものに変容されてゆくのです。
これを私は"化される"、と言っています。正確には思いが化されてゆくのでしょう。
なるほど神的なものに化されないものは、幻想に思える...この意味で神しか実在しないのかもしれません。