人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実存的な祈り

2022-02-25 10:24:17 | 祈りと瞑想
“神的なものと自己は、切り離すことが出来ない。”
と、いつも言っておりますが、もう、自己の外にばかり神を拝すような時代は過ぎ去った、という感が強くあります。
言い方を変えれば、意識を内側に向けて神に祈れば、ますます思いを超えた、大本の自己が生き生きと、開かれて来るということでしょう。
超える、超えられるということは、開かれることなのです。
考えている私のままならば、思いを超えることが出来ません。だから祈る必要があるのです。
祈りといっても、私は広く、深い意味で形を超えた、“意識を神に向ける、向いちゃう”ような消息のことも言っているのですが、そんな掴みどころのないことばかりでなく、言葉による祈りのこともたまには触れてみたいと思うのです。
といって...“こうこう”という、どっかで定められた、決まった祈りの文句を唱える、なーんてこと私が言う訳ないでしょ!
上に書いたような内容の祈りなのであれば...人から教えてもらって、それに従ったりする、てーのは、ちょっと情けないじゃありませんか?...自分自身のことなんですよ!
自分のまっ中心に投げ出すような祈りでなければ...
何の虚飾も、体裁も要りません。真っ正直に心に浮かんだままに祈ればいいのです。
祈り方が分からないのなら、“祈り方を教えて下さい!”、と祈ればいいじゃないですか?
神が分からないのなら、神に触れたいのなら、“神よ!、アリアリと現れ、お示し下さい!”と祈ればいいじゃないですか?
神のみ旨が分からないのなら、“み心のままに...”と祈ればいいじゃないですか?
と、こう書いてきて、もう、言葉にならない、言葉を超えたものとならざるを得ない感じになってしまうのです。
祈りが届くもなにも、何かが来てる感じになってしまう...
どっか遠くの、誰かが言っているような神、祈りなんかであなたの魂が揺さぶられたりするでしょうか?
神はもう真向かいに居る!...私の実存と一つに...
この春は、一段と間近に、密になって来る兆しが...
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