人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私は神...ではないi

2022-02-06 10:07:05 | スピリチュアル?
スピ界隈には、人間は本来神と一つのものであるとか、神は内にお在す、というような教えが広く浸透しています。
私はそのことを否定するものではありませんが、そこから短絡的に"私は神であるi"、と言い放つことには、どうして向かわないものを感じてなりません。
何度か触れているようにこういうことは、ただそう言い伝えられていることを観念的に信じ込むことだけで、済ます訳には行かないものでしょう。
神がどういうものかは分からないし、本当に私と一つのものか、この内に神が居るのかは分かりませんが、少なくとも神的なものが私に密なものになることにより、そのような実感がもたらされたりするのです。
これは現実に神的な現臨を感じ、意識が向いてしまうことから示されることなのですが、だからといって、私が神になったりはしませんi
そうなったら、多分人間であることは終わってしまって、こうして好きなこと書いてたりしてないでしょう。
この言い回しの違いは、微妙なものではあっても、結構大きいものがあります。天と地ほどの違いと言ってもいいでしょう。
私は...私が...、という線には、思われたままの私、思いが越えられていない私が"そうなりたいi"、という欲求からそう主張したい、という思惑が感じられます。
こういう人間は、本当には神に思いが向けられてはいないのでしょう。神に思いが向けられれば、思いを超えた意識の次元が開かれるはずだから...神に思い、意識が向けられない、とは言い換えれば、神に自己を明け渡す気が無いということでしょう。
神の前にあっては、かくなろうとする自分は無化されてしまう...私は何ものでもない...
この思い方の違いについては、例えばある建物があったとして、本来地続きで大地とつながり、一つのものであっても、その建物自体は大地ではない、ということを考えれば理解出来るでしょう。
大地あっての建物...建物自体に囚われ、大地から切り離されるや、それは崩れ去ってしまう他ありません。
現実に私が...、という私が大地なる神につながることは、そう為さしめるもの無しには不可能であり、そうしたハタラキ共々が神的なものなのです。
現実に神と一つになる方に、意識が向けられることはあっても、"私は神である"、という方には行かないのです。そういう神的な促しは感じられません。
そういう思いに支配されるや、おそらくそのハタラキはとまるか、別のものに取って代わるでしょう(これは神なき人類の歴史の縮図を見るようでもあります)。
そう為さしめるものあっての私...そのものが現前すれば意識が向かわずにおれなくなる...そこには、神になろうと目論む私が与ることの決して出来ない、愛、平安があるから...。
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