前回の続きで、本山博先生の著書に、プルシャの次元に移行する直前には、魔的な存在が現れ、自分がブラックホールのような、暗闇の深い淵に引き込まれて、一切が無くなってしまうような非常な恐怖を味合わせられる、ということに触れています。
こうゆう魔の体験は、必ずあるとまで書かれているのですが、自分の意志的な力で神体験を目指すという向きには、不用意な、準備の出来ていない精神に、それを挫くべく、そうしたものがハタラキかけるであろうことは想像出来るとして、そうでない神を祈り、待ち望むものたちなどは、それが先入観となって、怖じ気づいてしまい、”断念“してしまうことにもなりかねないでしょう。
言わずもがなですが、自分が体験したからといって、それがすべての人に当てはまるようなこともあれば、そうでないこともあるのです。
私の体験から言えば...必ずしもそういうことはないでしょう。
ただし、先生の記述とそっくりなことは、通らされたことはあります!...なんだ、どっちなんだ?...って、それで神的なものとつながる、プルシャ次元のような意識領域に移行した訳では無いのです。
それ以前のことで、正に魔にやられてしまったかと思いました。
何度か書いてますが、思考どころか、意識ごと飛んでしまうような事態に見舞われたのです。それには対処のしようが、為すすべが無い...祈ることしか!
祈ることしか出来ないことが救いなのです!...生まれて初めて、観念でない、思いを超えた実在としての神にすがらざるを得ないことに導かれたのです。
これが現輪感覚が芽ばえたことの端緒なのです。
端的に言えば、あの魔の、恐怖の体験とは、神的なものが意識に臨んでいなかったことによるものと言っていいでしょう。しかし、神は祈りに応えたもうた!
真実に、心からなる祈りをもってせば、そのような試みには会わないであろうことは、このことを通して感ずるものです。言い換えれば、祈り無きところ、神の道は開かれることは無いことを知るべきでしょう!
次に、初めて神的なものに捉えられ、直に出会い、つながった直前、本格的に思考も、為そうとする力も失い、やはり私のすべてが闇に包まれてしまう事態に見舞われました。
しかし、そこでは魔的なものも、言い知れぬ恐怖も感じませんでした。
その暗闇のすぐ向こうには、光明が私のすべてに差し込むことが予感されていたからです!
何故、このようなことが起こるのか?...体験しなくともよーく考えれば分かることです。
本山先生も言っているように、神体験に与るには思考、為す力が超えられなければならないのです。
自力でそれが開かれなければ、どうしたらいいのか?...お分かりですね、神的な恩寵により頼むしかないのです!...これを私は無のハタラキと呼んでいます。
このプロセスは、どのような有り様で通らされるかは、ぶっ倒れてしまうか、一陣の風が吹くように通過してゆくか、一人一人異なるでしょうが、誰しもが通らされる大きな関門であるのは間違いないでしょう。
そして、それは神との出会いと一続きのものであるのは言うまでもありません。
このように、大峠を越す道には魔が待ち構えているのか、神の恩寵が降り注ぐのかは感じ方によるでしょう。二つに一つだ!、なーんて、選択する思考を失うあなたにはどっちか選ぶことなど出来ないですよ!
しかし、意識の次元では、おのずと一つの方に向かうしかないのです。そう言わんでも考えたら分かる...神に任せるしかない!
神の現存、現臨から外れた時、魔が忍び寄るのではないでしょうか?
こうゆう魔の体験は、必ずあるとまで書かれているのですが、自分の意志的な力で神体験を目指すという向きには、不用意な、準備の出来ていない精神に、それを挫くべく、そうしたものがハタラキかけるであろうことは想像出来るとして、そうでない神を祈り、待ち望むものたちなどは、それが先入観となって、怖じ気づいてしまい、”断念“してしまうことにもなりかねないでしょう。
言わずもがなですが、自分が体験したからといって、それがすべての人に当てはまるようなこともあれば、そうでないこともあるのです。
私の体験から言えば...必ずしもそういうことはないでしょう。
ただし、先生の記述とそっくりなことは、通らされたことはあります!...なんだ、どっちなんだ?...って、それで神的なものとつながる、プルシャ次元のような意識領域に移行した訳では無いのです。
それ以前のことで、正に魔にやられてしまったかと思いました。
何度か書いてますが、思考どころか、意識ごと飛んでしまうような事態に見舞われたのです。それには対処のしようが、為すすべが無い...祈ることしか!
祈ることしか出来ないことが救いなのです!...生まれて初めて、観念でない、思いを超えた実在としての神にすがらざるを得ないことに導かれたのです。
これが現輪感覚が芽ばえたことの端緒なのです。
端的に言えば、あの魔の、恐怖の体験とは、神的なものが意識に臨んでいなかったことによるものと言っていいでしょう。しかし、神は祈りに応えたもうた!
真実に、心からなる祈りをもってせば、そのような試みには会わないであろうことは、このことを通して感ずるものです。言い換えれば、祈り無きところ、神の道は開かれることは無いことを知るべきでしょう!
次に、初めて神的なものに捉えられ、直に出会い、つながった直前、本格的に思考も、為そうとする力も失い、やはり私のすべてが闇に包まれてしまう事態に見舞われました。
しかし、そこでは魔的なものも、言い知れぬ恐怖も感じませんでした。
その暗闇のすぐ向こうには、光明が私のすべてに差し込むことが予感されていたからです!
何故、このようなことが起こるのか?...体験しなくともよーく考えれば分かることです。
本山先生も言っているように、神体験に与るには思考、為す力が超えられなければならないのです。
自力でそれが開かれなければ、どうしたらいいのか?...お分かりですね、神的な恩寵により頼むしかないのです!...これを私は無のハタラキと呼んでいます。
このプロセスは、どのような有り様で通らされるかは、ぶっ倒れてしまうか、一陣の風が吹くように通過してゆくか、一人一人異なるでしょうが、誰しもが通らされる大きな関門であるのは間違いないでしょう。
そして、それは神との出会いと一続きのものであるのは言うまでもありません。
このように、大峠を越す道には魔が待ち構えているのか、神の恩寵が降り注ぐのかは感じ方によるでしょう。二つに一つだ!、なーんて、選択する思考を失うあなたにはどっちか選ぶことなど出来ないですよ!
しかし、意識の次元では、おのずと一つの方に向かうしかないのです。そう言わんでも考えたら分かる...神に任せるしかない!
神の現存、現臨から外れた時、魔が忍び寄るのではないでしょうか?