精神的な道において、特に修行を伴うものでは、決まってと言っていいほど“空“とか“無“の状態になることに目標が置かれたりします。
それは、多く悟りと結びつけられる訳ですが、端的に“思いを超える“ことを言い表していると言っていいでしょう。
そうした状態に与った人たちは、禅の見性体験など、一様に“心がからっぽになる“ことは、例えようもなく素晴らしいことなんだ、と語ったりするので、否応なしにその境地に惹きつけられてしまうようです。
しかし私はここで、空とか無になることそれ自体のことを取り上げることはほとんどありません。
だって、ただ思いが超えられた、何にも思わなくなった、からっぽになっただけのことってそんなに幸せなことなんですか?...ご冗談でしょ!
私もそういう風な状態に何度かなったことありますよ。自分がそれを求めた訳じゃありません。誰が求めるか、そんなもん!
ただ何も思えない!...そう、悟り系スピではお馴染みの...私は居ない!、全体しかない!、いや違う!、全体もない!...全体と一つになんかなれっこありません!...何が私で、何が全体なのか分かりゃしないのです!
そこには、似たような状態とも言える、あの魔的なものに包まれ、暗闇に吸い込まれるような恐怖も感じないし、あらゆる苦しみも無い...そして愛、幸福も感じられないのです!
生きる意欲も無い...生きているのか、死んでいるのか?...な~んにも無い!
探求は終わった?...そりゃ探求というか、惹きつけられるものが無いんだから...
そうです。そこには神的な現臨が感じられないのです!
例えようの無い幸福感、愛...それはこのものあってのものなのです!
意識が向けられる、惹きつけられるものがある...生の律動感、大生命との一体感...
禅僧でも、ヨガ行者でも、このものにあって、心がからっぽになったことの消息を伝えているに違いないでしょう。”禅病“のようなことである訳ないでしょう!
ブッダの涅槃の境地というものが、あるいはこうした“空”の状態を想起させるかも分かりません。
しかし、ブッダは涅槃に入れば、そこには”安らぎ”があると述べられているのです。
それは、我々の思いを超えたもの(ブッダにおいては”ダンマ~法“)から来る...
私がいつもここで言っていることは、それを神と言おうと何と言おうと、思いを超えたものにあって、初めて思いが超えられる、ということに他なりません。
それは、古来から精神的な道で言い伝えられていることに違いないのです。
あったりまえでしょ!...それは生きている人間のために伝えられているのだから...
それは、多く悟りと結びつけられる訳ですが、端的に“思いを超える“ことを言い表していると言っていいでしょう。
そうした状態に与った人たちは、禅の見性体験など、一様に“心がからっぽになる“ことは、例えようもなく素晴らしいことなんだ、と語ったりするので、否応なしにその境地に惹きつけられてしまうようです。
しかし私はここで、空とか無になることそれ自体のことを取り上げることはほとんどありません。
だって、ただ思いが超えられた、何にも思わなくなった、からっぽになっただけのことってそんなに幸せなことなんですか?...ご冗談でしょ!
私もそういう風な状態に何度かなったことありますよ。自分がそれを求めた訳じゃありません。誰が求めるか、そんなもん!
ただ何も思えない!...そう、悟り系スピではお馴染みの...私は居ない!、全体しかない!、いや違う!、全体もない!...全体と一つになんかなれっこありません!...何が私で、何が全体なのか分かりゃしないのです!
そこには、似たような状態とも言える、あの魔的なものに包まれ、暗闇に吸い込まれるような恐怖も感じないし、あらゆる苦しみも無い...そして愛、幸福も感じられないのです!
生きる意欲も無い...生きているのか、死んでいるのか?...な~んにも無い!
探求は終わった?...そりゃ探求というか、惹きつけられるものが無いんだから...
そうです。そこには神的な現臨が感じられないのです!
例えようの無い幸福感、愛...それはこのものあってのものなのです!
意識が向けられる、惹きつけられるものがある...生の律動感、大生命との一体感...
禅僧でも、ヨガ行者でも、このものにあって、心がからっぽになったことの消息を伝えているに違いないでしょう。”禅病“のようなことである訳ないでしょう!
ブッダの涅槃の境地というものが、あるいはこうした“空”の状態を想起させるかも分かりません。
しかし、ブッダは涅槃に入れば、そこには”安らぎ”があると述べられているのです。
それは、我々の思いを超えたもの(ブッダにおいては”ダンマ~法“)から来る...
私がいつもここで言っていることは、それを神と言おうと何と言おうと、思いを超えたものにあって、初めて思いが超えられる、ということに他なりません。
それは、古来から精神的な道で言い伝えられていることに違いないのです。
あったりまえでしょ!...それは生きている人間のために伝えられているのだから...