人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識次元が開かれる時

2022-08-10 10:41:41 | 哲学・思想
今の世の中、あらゆる局面で、思考することが希薄になって来ているのを感じてなりません。
場当たり的というか、短絡的というか...ネットなどで氾濫している誹謗中傷に特にそういうものを感じます。
言葉は、色々交わされるのだけれど、何が言いたいのか伝わって来ない、心持ちというものが感じられない、心ない言葉...その言葉は、考えがあったとして、それは本心から発しているものなのか?
いや、あれこれと思考はしているのだけれど、何か薄っぺらで中身が感じられない...
同じことを言っているのに受け取り方が全く違う...これはどういうことを表しているのでしょうか?
意識に根差しているのか、意識の動きに即しているかどうかということではないでしょうか?
先のように、心というもので一括されてしまうようですが、言葉、思考は、本来意識の次元と切り離されないものです。
思考機能は、後退しても意識は働く...これは熱中症などになってみたら分かりますが、思考を超えた、神的なものに捉えられたらもっとテキメンに分かります。
神的なものとは、神について観念的に信じたら分かるものでなくて、そうなって初めてそれが何かは分からないまでも、少なくとも自己に直接生きて働き、つながるものだということは示されるのです。
そして、表層の思考のみで考えられたことは、それが如何に論理的な構築を備えたものであろうと、意識に根付いていなければ、自体基礎を持たない、がらんどうのようなものと言ってもいいでしょう。
頭だけで分かったつもりでも、身が頷かずして分かったなどと言えるでしょうか?...フに落ちたでしょうか?
あんまり前回みたく、“ヌース圏“のゲートが開くとか、外的要因に囚われる必要は無いですが、私が日々感じていることは、思考のハタラキが希薄になって来ていること、そしてその圏層を貫いて原初的思考の流れが顕わになって来るということです。
それは、その後退しゆく思考機能によって得られるものではありません。
天来の叡智の如く閃くものなのです。
ただ、全く自分で考える、思考するという積み重ねのない、そこに意義を持ち得ない人間精神にそれがもたらされるということも私には考えられないことです。
そうでなければ、その限界も、それを超えるとはどういうことかも示されることは無いでしょう。
それは、自己の実存に顕わになるものに他ならないのだから...
内的実存こそは、意識次元と結びつくものなのだから...
今日、多くの人は何も考えてないか、考えすぎて(それは何処にも行き着かないでしょう)いるように思われます。
人間精神は、考えたりするだけで成っているのではありません。
その奥には、又はそれを超えて意識の領域というものがある...今は自動的にも他動的にもそれにアクセスし易くなって来ていると言えるでしょう...。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする