人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

瞑想と言えない瞑想

2022-08-23 10:05:42 | 祈りと瞑想
何度か書いてるように、意識を向けたらパッと何か心が開かれて、現臨にある状態になるのを頻繁に覚えるようになったのは、平成10年の今頃だったのですが、これは逆説的ですが、自分からそのような霊的な状態になろうとするのを諦めたことによるのでした。
しかし、今のようにそれが定着するようになるまでには紆余曲折があったのです。
その翌年、前回も触れた、仕事上から日常生活に暗い影が忍び寄る事態に見舞われていた時は、やはり頻繁に、とはゆかず、そういうこととは違う、“生活をどうしよう”、とか外向きの方に意識が囚われがちになっていたのです。
これは“何とか現状を克服せねば!”という克己精神に欠けた、人生修行の足らない私のこととて致し方ない、と言う他ありません。なにせすぐ、“もう、ダメだあ!“ってアキラメちゃうんですから!
しかし、そういう状態が続いたためか、“どんなにガンバったって、思いを超えたものは臨んでこない!、何もしないで坐ってよう!”、なんて感じで、瞑想とも言えない瞑想のようなものをしていることも多くなりました。
そうしているうちに先のことが掴めた気がしました。
つまり...それは、掴もうとしたら掴めない、ということを!...何も期待しない!...すると、“あらっ?”っと!...
瞑想修行でないので、雑念がいくら沸いてこようが関係無いし、何をどうこうしようということも何もありません。
瞑想というと、金井系一郎先生の瞑想の会に入っていたのですが、その少し前、経済的諸事情により会費を納めなかったので、自動的に会員から外れてしまいました。
だからと言って、それ以降も瞑想は続けられます。当たり前の話でしょうが、非会員になったからって何かの霊線が切れたり、何かの加護が受けられなくなったりはしませんよ!
その会で行われている瞑想よりもっと、ある意味イイカゲン、無為的な瞑想(みたいな)ことをしていたのです。
ただ、あることを目安にはしていました。
それは、浅い、深いに関わらず、あの感じ...そう、“あれ”が臨んでくる、何か”くわっ“と、エネルギーみたいなものが流入して来るのが感じられるまで、ということです。
それまでには、10分かかるか、30分か、1時間か2時間か?...
“なんて気の長いことを!、それって修行じゃないか?”、と思われる方もおられるでしょう?
何で私がそういうこと言えるかというと...10分だって待ったことが無いからですよ!
坐ろうと思っただけでそうなることもザラです。これは、私の何ものかによってそうなるんじゃなくて、そのものが臨むからそうなるということなのです!
だから、何でそうなるかは、意識が向いちゃうからなんでしょうが、やっぱり、よう分からないのです。それが思いを超えてるってことなんでしょう?
何にせよ、こういうことを通して、あの感じが定着するようになったのは確かなことです。
この意味でそうなるには、意識が向く、向けられる場所というものも必要だと思います。
私の場合それは、その瞑想モドキだった訳です。
ここ数年は、又さらにもう即応性も深度も増した感があるのですが、これにはこうして書いていることが重要な要因になっているのは、間違いないでしょう!...
コメント (6)
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