人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が主の本願

2022-08-13 09:33:00 | 祈りと瞑想
「されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候へ」(親鸞、歎異抄)

私は、わが国の精神史に親鸞上人がおられること、かくも我々の実存に迫り、訴えてやまない本願という“根源現実“(これは、キリスト者の小池辰雄先生が“キリストの本願“として好んで使われていた言葉)のことを告白されていたことを深く感謝せずにおれません。
実は白状しますが、数年前まで私は、弥陀の本願だか四八願だか、そういうのは観念的に信じ込むだけのことのようにしか思っていなかったのです。
だが...もう、こうして書いているだけで、弥陀と言わんか、キリストと言わんか、そう、それは我が主から来る!、それぞれにとっての我が主、実存の主である!...そのものが迫り、臨み、私のすべてを包み込むのを感じてならないのです。もはや、神的なものにつながる、その方法論などのことは尽きてしまったではありませんか?!
私は、このものに会わされることを通して、根源現実としての本願というものをヒシヒシと身に覚えることになってしまったのです。
この思われた私が何をしようというのか?...我が主の方が、主と一つのものとならんとを望み、臨み給うのです。
こちらの為すことは何も無い...それに打ち任すことしかありません。
その上で、こちらの設えた方法だとか、私の力で、修行で、努力で...と、為そうとする思いに固執することは、本願がなされようとする通路を塞ぐことになるのではなかろうか?
五井先生の“消えてゆく姿“の教えにはあまり馴染みはありませんが、「自分がやろうとすることは、消えてゆく姿...」(五井先生)ということは分かります。
我が主が臨む時、それは無くなるから...
といって、人にはそれぞれ縁というものがあり、自力修行の道を歩まされている者もおられることでしょう。
そこに、この自分を超えた、それ以前から自分を在らしめ、導かんとするものに意識を向けられたら、新たな理解がもたらされ、自力とは、本来“おのずからなる力“という意味合いもあることに気付かされることもあるでしょう。
悟りの道はさて置き、もし、神と一つの道(いや、そもそもここから離れて悟りなどというものがあろうか?)を求めるのであれば、神的な本願に与ることがあるばかりではないでしょうか?
いや、だから...神的な現臨にあるということは、そういうことに他ならないのです!
どうして、書いているだけで、意識しているだけでそういうことになるのか?
もはや、それは私ではない!...我が主の本源的願いに会わされているとしか言いようがありません!
こちら側に方法のようなものがあるとしたら、いや、それは方法無き方法と言うべきものですが、祈りというものがあります。
それは、こちらの願いであると同時に、本願が顕わになるということなのでしょう。
コメント
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