“意識を向ける、意識的になる“とかいつも言っていますが、どうしても正確に言い表すことが出来ません。
心、精神などと置き換えてもいいでしょうが、自分というものがあって、意識や心、精神をどうとかしようとか捉えてしまうとおかしくならないでしょうか?
自分の心で自分の心を?...ましてや意識などもっと捉えにくいものです。
○○をとか、どうとかしようというのは、それを対象にしているということになるでしょう。
心理学とかで心、精神、意識について対象にして研究することは出来ても、自己自身に即したら自分が二つに分離してしまいそうです。それは自己実存に関わるものなのですから。
意識的になるとは、実存的になると言ってもいいでしょう。要するに自分自身になること...自分自身に意識を向ける...あ、又!、ああ、どうしてもガツン(死語?)としたことが言えない!
これは意識が内向きになっていることです。一方、自分の向こうに置いて対象として捉えることは、外向きになっていると言えます。
神的なもの、霊なるものとの出会いの道は、意識的、内的な有り様でなければ、いつまで経っても開かれることがありません!
然るに宗教、スピの界隈には、諸々のオカルトの教えや陰謀論などにハマることは元より、神、真理などのことも対象化され、それらの教理に信従することに重きが置かれる、信仰ばかりがかくも溢れかえっているではありませんか?
「神をいつまでも信じ仰いでたってしょうがない!」(小池辰雄)のです!
そこには、思念が超えられるということがありません。否、それは益々強固なものとなるばかりではないか...それが、狂信者ほど神に遠いものは無い、という所以なのです。
物事を対象化したり、外向きの意識の在り方自体は、否定されるべくもありませんが、一人一人の人間には、内的な意識、精神の在り方というものもあるはずでしょう。
そこには、神の存在など全く感じさせないような、世界人類の滅亡の道しか映し出されていないのでしょうか?
その世界では、闇の勢力がずっと支配していて、自分もそれに屈服し続けているのでしょうか?
“私の外の世界が一体何だというのか?!
如何なる悪魔的なものも、何人も私の内なる世界を侵すことなど出来ない!
ここには、私と一つに神がお在すのである!...如何なる宗派も、信条も無く...神はここに在る!“
ここから切り離された時、意識、精神は外ばかりに向けられてしまうのです。自分自身には向けられることはなく...
自分が自分であるだけのことなのに、向けるとかいうことも本来ないはずなのですが...このことに気付かされることと、全く一つに自分を超えて、意識が自分自身に向けさせるものがあります。
「霊なるものは実存に働く」(ベルジャーエフ)のです。
そこに私と神的なものと二つは無いのです。だから、どうしてもこの消息のことは言い表すことが困難なのでしょう。
本当は、内とか外とか切り離されないものなのでしょう。外に向かう思いばかりがある...
ここから離れて何処に向かうというのでしょう?...
心、精神などと置き換えてもいいでしょうが、自分というものがあって、意識や心、精神をどうとかしようとか捉えてしまうとおかしくならないでしょうか?
自分の心で自分の心を?...ましてや意識などもっと捉えにくいものです。
○○をとか、どうとかしようというのは、それを対象にしているということになるでしょう。
心理学とかで心、精神、意識について対象にして研究することは出来ても、自己自身に即したら自分が二つに分離してしまいそうです。それは自己実存に関わるものなのですから。
意識的になるとは、実存的になると言ってもいいでしょう。要するに自分自身になること...自分自身に意識を向ける...あ、又!、ああ、どうしてもガツン(死語?)としたことが言えない!
これは意識が内向きになっていることです。一方、自分の向こうに置いて対象として捉えることは、外向きになっていると言えます。
神的なもの、霊なるものとの出会いの道は、意識的、内的な有り様でなければ、いつまで経っても開かれることがありません!
然るに宗教、スピの界隈には、諸々のオカルトの教えや陰謀論などにハマることは元より、神、真理などのことも対象化され、それらの教理に信従することに重きが置かれる、信仰ばかりがかくも溢れかえっているではありませんか?
「神をいつまでも信じ仰いでたってしょうがない!」(小池辰雄)のです!
そこには、思念が超えられるということがありません。否、それは益々強固なものとなるばかりではないか...それが、狂信者ほど神に遠いものは無い、という所以なのです。
物事を対象化したり、外向きの意識の在り方自体は、否定されるべくもありませんが、一人一人の人間には、内的な意識、精神の在り方というものもあるはずでしょう。
そこには、神の存在など全く感じさせないような、世界人類の滅亡の道しか映し出されていないのでしょうか?
その世界では、闇の勢力がずっと支配していて、自分もそれに屈服し続けているのでしょうか?
“私の外の世界が一体何だというのか?!
如何なる悪魔的なものも、何人も私の内なる世界を侵すことなど出来ない!
ここには、私と一つに神がお在すのである!...如何なる宗派も、信条も無く...神はここに在る!“
ここから切り離された時、意識、精神は外ばかりに向けられてしまうのです。自分自身には向けられることはなく...
自分が自分であるだけのことなのに、向けるとかいうことも本来ないはずなのですが...このことに気付かされることと、全く一つに自分を超えて、意識が自分自身に向けさせるものがあります。
「霊なるものは実存に働く」(ベルジャーエフ)のです。
そこに私と神的なものと二つは無いのです。だから、どうしてもこの消息のことは言い表すことが困難なのでしょう。
本当は、内とか外とか切り離されないものなのでしょう。外に向かう思いばかりがある...
ここから離れて何処に向かうというのでしょう?...