人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

切り離されないもの

2022-09-07 09:52:01 | 哲学・思想
私はよく、○○と○○は切り離すことは出来ない、という言い方をします。
これは、現臨というものを感じていたらそうならざるを得ないのです。
要するに、現臨と私は切り離されないのです!
それが臨んでくると、自ずと思念は後退してゆき、その分けることの出来ない、調和的、包括的なものに意識が向かうようになります。
つまり、それは“分別“智が後退し、本来的智が顕わになることに他なりません。
何でそうなるかは“分からない”...分けられないから...
ここで、本来的智と仮に言っているものは、頭脳智のみでなっているのでなく(それは、あくまで突出していたものが、引っ込むのであって無くなる訳ではありません)、直感智というべきもの、又表層意識では別々のように認識されている愛とか、情動、パトス的なものと切り離されていないのです。
本来的というのは、それが“本来の人間“の在り方のように感じているからです。
これは勿論、智に関するものでなく、個と全体、見えるものと見えないもの...とあらゆるものにも関わるものなのです。
転じて、今日人間存在の存続の危機が叫ばれているのは、この本来性から切り離されて、分別智の偏重による、その飽くことを知らない暴走によるものと言っていいでしょう。
人間とは、考える生き物であるだけでは決して無いのです!
もっと根本的なことに触れるならば、人間とは、“人間と考えられている存在“のみによって成り立っているのでしょうか?
人間存在を規定していると”されているもの”は、“人間とはこうゆうものなんだ!“、という通論でしか無いのではないでしょうか?
これは、本来切り離されないあるものから、人間と考えられるものを切り取ってみせたものでしか無いのではないでしょうか?
切り離されないものから切り離されるということは、その本来の、生命の本源から切り離されることを意味するでしょう。
それは考えられている人間を全く超えたもの、あるいはそれ以前から実存しているものに他なりません。
人間のことは、超越的にして、内在的なものを抜きにしては、考えられないのではないでょうか?
私はそういうものを神的なものと呼んでいます。その実体は言うまでもなく分からないのですが...これまでのこの世の通例では、人間は人間、神は神とはっきり分けられて捉えられてきました。
どちらもそれが何かは分からないものであるにも拘わらず...そこで言われる神というものが如何に、“考える主体としての人間の存在“を無視するかのように、有無を言わせない、押しつけがましい権威と結びついてきたかということは、私も十分理解しているつもりです。
”そういうものに我々人間は、容易く屈服してはならない!”、と私も叫びたい!
しかし、そういう通例も、本当には我々が生命の本源から切り離されてしまったことによる、人間自身の過失には違いないでしょう。
今こそ人間は、もっともっと自分自身に向き合わなければならないのです。
さすれば、人間を超えた、あるいは人間存在の前から生き通しのものとつながることが出来るでしょう。
逆説的に言えばそれが本来の人間なのでしょう。神と人間は切り離すことは出来ない!
人間は、真の人間の姿を未だ見ていないのです!
限りある人間、頭だけの暴走の歯止めの利かない人間からは、もはやその命の故郷への帰還の道は閉ざされたようにも思える...
しかし、それを見えないところでストップをかけ、その道が開かれるのを促すものこそが現臨に他ならないのです。
それは本来、我々と切り離されないものなのだから...


コメント
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