人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!

2022-09-08 10:21:40 | 人生の教師
「十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!」
この言葉は、小池辰雄先生から何度も直接お聞きましたし、書かれたものにも接してきました。
そして、この私もここで何度となくそのことについて書いてきました。
くどいようですが、このことはいくら強調してもし過ぎることは無い、と感じてやまないものがあるのです。
(神の現臨たる)聖霊を受けるという。さらにそれが深まると聖霊のバプテスマに与るという。これは広く宗教的回心、覚醒、悟り体験の一つと言ってもいいでしょう。
それは、人間のレベルを超えた、超人、神と一つになった境地へと進化することのように思っている人も多いでしょう。
しかし、この思われたままの自分が、その延長として連続した形で、そうした境地に達する、という風に捉えられているとしたら、それは正にそう思っているだけのことでしょう?
古来から宗教的伝統で無になるとか、空になるとか言われていることは、宗教的回心、覚醒には思いを超えなければ開かれない、ということを伝えているに他なりません。
一体、手放しで、その思っている自分が、自分から思いを超えることなど出来るでしょうか?
よく考えたら分かることじゃありませんか?!
つまり、思われた世界と思いを超えた世界とは非連続になっているのです。その際に自己を超えたものが切り込むように臨むもの...それが聖霊です。
短絡的に人間は、今の段階より段々神の段階へと進化するものだ、と思っているとしたら...その思いは消えてしまうかもしれません!
聖霊が臨み、それを深く体受することは、思いを無化させられることだから...
そういう思いにずっと駆られていることよりも、神のハンマーを受けて“断念“させられる方がはるかに重要なことではないでしょうか?
そうでなければ、どうして神、キリスト、如来と一つにつながることなどあり得ようか?!
まことに、真に自我に纏わる思い、自我性の突破無くしてあり得ないではないか?!
小池先生が示された十字架とは、こうしたことに深く関わっていたのです。
聖霊を受けることは、十字架を背負うこと、否同時に受けることです。これは、不離一体!
通常のキリスト教の教えでは、それは(私には到底手放しで出来そうにない)苦難を背負うこととして理解されているようですが...恩寵の事態というものは、苦しさに耐えるような、そんな(思っているような)世界では全くありません?!...何故ならば、それは愛、平安と切り離されないものだから...
先述したように、幾多もの宗教的伝統では、無、空に至る道が説かれているのですが、小池先生のように、具体的に、霊的実存に照らされて示された例は、私は寡聞にして知らないのです。
ただ惜しむらくは、十字架と聖霊という、如何にもキリスト教だけにしか通じない用語によって語られているために、その内実は普遍性へと向けられているにも拘わらず、ごく一部のキリスト教関係の間に留まっているということです。
万人に向けられているものほど埋もれている...全くどっかの一風変わったブログで取り上げるのが相応しいのかもしれません...。


コメント
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