人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

苦難と恩寵

2022-09-26 10:28:21 | 求道、探究
人は皆幸福を求めているもの...心安らかに生きんと願わないものは居ないでしょう。
これは、勿論自分だけ幸福であればいい、と言っている訳ではありません。
又それは、能動的に獲得出来るような幸福を追い求めることでもありません。
私は、ラマナ.マハルシの「幸福であることは、人間の本来性である」という言葉に”自然に”頷くものを感じます。
だからか、苦難にわざわざ能動的に向かおうとしたり、自己犠牲の道に進んだりする生き方には、どこか無理なもの、不自然なものを感じてならないのです。
ただし、そう赴かせるそこに幸福が感じられていたり、その向こうにそれに与ることが見据えられているのならその限りではありません。
しかし、そのような生き方は、思われたままの自分からは出て来ず、”思いを超えたものにあって“為し得ることなのでしょう。
そういう今の私から見て、昭和59年秋から翌年春まで続いた、ノイローゼみたいな、思いの固着状態の苦難というのが、何か悪い夢でも見ているように、現実にあったように感じられないのです。
だけど...”ホンの一寸した思いの囚われだったものが、だんだん大きく、深くなってゆく...それから逃れようと、もがけばもがくほどクモの巣に捕らえれたようにがんじがらめにされてゆく...“、とリアルに思う起こすと、何かついこないだのことのようにも感じられて来るようです。
そういう思いに駆られる時は、祈ればいい!
しかし、当時の私は、そういう心の状態にあるのは、自分にその時置かれた運命のように感じていて、その苦境を受け入れ、向き合わなければならず、祈ったりするのは、それから逃げることのように思っていたのです。
(当時の私に言いたい!)いや、その祈りというのは、そんな”ああだ、こうだ”と思う先に、自然と、ぱっと意識が向いてしまうようなことを言うのです。(何にって、君が一番知りたがっていて、一番先につながりたいと思っているものにだよ!)
自分の思いだけで、苦難に立ち向かおうとしたりするのには無理があるのです。
実際、その半年に及ぶ精神的苦難がそのことを物語っているのです。
出来もせんことを考えてないで、苦しかったら、苦しいと訴えたらいいじゃないか!(だから、何にって、君が知らない訳無いじゃないか!)
苦しい、病気なら医者に行って治してもらうのは、ごく自然な行為でしょう。
まして、それは行為以前の”一念の自然な動き“なのです。祈ろうと思わなくともそうなってしまう!
何で当時の私は、そういうことにならなかったのかと思うと...サッパリ分からない!、しかし、実に面白い!
これには多分に、当時ハマっていた苦難に身を投じた、フランスの女流思想家シモーヌ.ヴェイユに感化されたところがあったようです。
しかし彼女のその自己犠牲のような精神は、恩寵を受け入れることと切り離されていなかったのです。
恩寵を受け入れること...このことに意識が向いたことで、その苦境から解放されたのでした。
コメント
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