神的なものと初めて真向かいに出会った時にも、今もその現臨にある時も強く感じることは、神は、神の方がこちらを引き付けようと、近づけようとしてやまない、ということです。
だから私は、深い悟りのようなものはさて置き、本当に神を求めるものが、中々そういう神の臨在のようなものを感じられない、ということが不思議でならないのです。
人づてに聞いた話では、ある人は、そうしたものに与るのに十年かかったとか言っていたそうですが、そんなんあり得ない!、と思わざるを得ませんでした。
そういう場合には、どこか神に直接意識が向かわない、向かわせない何かがあるように思えてなりません。
例えば、神そのものでなくて、神についての誰かの、宗教の教え、倫理道徳を修めることだとか、その教師的人間を神の如く崇拝してしまっているとか、神に至るとされる、修行方法に囚われ、悟りの境地を極めることに向けられているとか...本当には何を求めているのでしょうか?
そうしたものへの固執が強ければ強いほど、神への道は閉ざされ、遠のいてゆくのは、よ~く考えれば分かるのではありませんか?
それらを捨てなければならない、ということは多分無いでしょうが、もし真剣に神を求めているのでしたら、一度それらから離れてみて、あなた自身の神にゆだねる気持ちで向き合ってみてはどうでしょうか?...もっとも、ハナっからその気が無いのなら何をか言わんやですが...
神の方が道を示そう、開こうとしているのですよ!...だったらこちらは、”御心のままにお任せします!”、ということでしか無いのではありませんか?...全託、託身。
こういう祈りに勝るものは無いでしょう。又どういう祈りにもこうした言葉以前のものが込められているものでしょう。
そのように、意識が向かう、向かわされる...もう、即...そくそくと神的な力の流入が感じられて来るはずです。
これは何かの教えでも修行法でもありません。神と直に向き合うということは、間に介在する何ものも無いということなのですから...
それらがあったとして、それは何を、何処を指し示しているのでしょうか?
悟りの道がある、という...それは何によるのでしょうか?
遅いか、早いかということはあるのでしょうが、すべての精神的な道は、神への全託に行き着くのではないでしょうか?
だから私は、深い悟りのようなものはさて置き、本当に神を求めるものが、中々そういう神の臨在のようなものを感じられない、ということが不思議でならないのです。
人づてに聞いた話では、ある人は、そうしたものに与るのに十年かかったとか言っていたそうですが、そんなんあり得ない!、と思わざるを得ませんでした。
そういう場合には、どこか神に直接意識が向かわない、向かわせない何かがあるように思えてなりません。
例えば、神そのものでなくて、神についての誰かの、宗教の教え、倫理道徳を修めることだとか、その教師的人間を神の如く崇拝してしまっているとか、神に至るとされる、修行方法に囚われ、悟りの境地を極めることに向けられているとか...本当には何を求めているのでしょうか?
そうしたものへの固執が強ければ強いほど、神への道は閉ざされ、遠のいてゆくのは、よ~く考えれば分かるのではありませんか?
それらを捨てなければならない、ということは多分無いでしょうが、もし真剣に神を求めているのでしたら、一度それらから離れてみて、あなた自身の神にゆだねる気持ちで向き合ってみてはどうでしょうか?...もっとも、ハナっからその気が無いのなら何をか言わんやですが...
神の方が道を示そう、開こうとしているのですよ!...だったらこちらは、”御心のままにお任せします!”、ということでしか無いのではありませんか?...全託、託身。
こういう祈りに勝るものは無いでしょう。又どういう祈りにもこうした言葉以前のものが込められているものでしょう。
そのように、意識が向かう、向かわされる...もう、即...そくそくと神的な力の流入が感じられて来るはずです。
これは何かの教えでも修行法でもありません。神と直に向き合うということは、間に介在する何ものも無いということなのですから...
それらがあったとして、それは何を、何処を指し示しているのでしょうか?
悟りの道がある、という...それは何によるのでしょうか?
遅いか、早いかということはあるのでしょうが、すべての精神的な道は、神への全託に行き着くのではないでしょうか?