ここでスピ関連で書いていることは、ほとんど現臨について、という感がありますが、再三言っているように、それは私が考えたものでも何でもなく、そういう概念(があったとして)に囚われる必要は全く無いのです。
単純にそれは神と言ってもいいですし、キリスト、阿弥陀如来、守護の神霊、ハイヤーセルフ...、あるいは人格的でない気、生命力と言ってもいいでしょう。
ただ、敢えてここで現臨と呼び慣らわしている理由は、それは現実に我々に生きてハタラくものだ、ということを言いたいが為なのです。そうでなければアクセサリーのような神など何にもならないではないか?!
どんな呼び名であれ、生きたものであれば、その現臨感覚に触れられるはずなのです。
一つ、私のこの思いは、普遍性に向けられているということは言えるでしょう。
仮に、この現臨について私が何らかの理論みたいなものを持っていて、論理的な説明を持ってそれを論証したとしましょう。
それは、普遍性ならぬ”普遍妥当性”に訴えての試みだったりするのですが、それをある論客によって反論され、否定されてしまったとしても...そんなもの痛くも痒くも無いわ!
そんな頭が痒くなるだけのことに拘わらず、私は現臨に与ることが出来るのです。
むしろ、その論客の頭の論理だけに帰結させてしまうことを気の毒に思うだけでしょう。
いやもう、本当に、ホントーにお気の毒なこった!
何がって...愛、平安、幸福に与ることが出来ない、これに尽きるのです!
私か心の底から伝えたいことはこういうことなのです!...如何せん、言葉の限界というものがあるし、表現が拙い故、伝わらないのをいつももどかしく感じているのです。
それは知的概念、論理の世界を全く超えている...直感の世界。
だからと言って私は、何か特別な宗教体験をしなければ分からない、などとは言いません。現に私はそういうものに与る前から示されていたのですから...もっともそれも広い意味で宗教体験なのかもしれませんが...
こういうことは分かる人には分かる...一つ言えることは頭の高い人には分からないでしょう。
とはいえ、又私は論理の世界を否定している訳ではありません。超論理的な、生きたものから切り離されず、その基礎の上に乗っかったものであるのなら...そのものあってのそれなのです。
そういう先人の、多く宗教哲学と呼ばれる書物などに接して私は、”よくもまあ、言い表し難いことを言語化出来るものだ!”、と何度か驚嘆、感動させられたことがあります。
確かに、哲学的思考を通しても、愛、平安、そしてリアリティの消息は伝わるものです。
これは、幾分普遍妥当性に譲歩した、普遍哲学?の試みと言えるかもしれません。
普遍性に向けての一つの表現方法として、そういう試みは多いにあって然るべきでしょう。
私のようなオツムの足りない人間にはちと無理ですが...
単純にそれは神と言ってもいいですし、キリスト、阿弥陀如来、守護の神霊、ハイヤーセルフ...、あるいは人格的でない気、生命力と言ってもいいでしょう。
ただ、敢えてここで現臨と呼び慣らわしている理由は、それは現実に我々に生きてハタラくものだ、ということを言いたいが為なのです。そうでなければアクセサリーのような神など何にもならないではないか?!
どんな呼び名であれ、生きたものであれば、その現臨感覚に触れられるはずなのです。
一つ、私のこの思いは、普遍性に向けられているということは言えるでしょう。
仮に、この現臨について私が何らかの理論みたいなものを持っていて、論理的な説明を持ってそれを論証したとしましょう。
それは、普遍性ならぬ”普遍妥当性”に訴えての試みだったりするのですが、それをある論客によって反論され、否定されてしまったとしても...そんなもの痛くも痒くも無いわ!
そんな頭が痒くなるだけのことに拘わらず、私は現臨に与ることが出来るのです。
むしろ、その論客の頭の論理だけに帰結させてしまうことを気の毒に思うだけでしょう。
いやもう、本当に、ホントーにお気の毒なこった!
何がって...愛、平安、幸福に与ることが出来ない、これに尽きるのです!
私か心の底から伝えたいことはこういうことなのです!...如何せん、言葉の限界というものがあるし、表現が拙い故、伝わらないのをいつももどかしく感じているのです。
それは知的概念、論理の世界を全く超えている...直感の世界。
だからと言って私は、何か特別な宗教体験をしなければ分からない、などとは言いません。現に私はそういうものに与る前から示されていたのですから...もっともそれも広い意味で宗教体験なのかもしれませんが...
こういうことは分かる人には分かる...一つ言えることは頭の高い人には分からないでしょう。
とはいえ、又私は論理の世界を否定している訳ではありません。超論理的な、生きたものから切り離されず、その基礎の上に乗っかったものであるのなら...そのものあってのそれなのです。
そういう先人の、多く宗教哲学と呼ばれる書物などに接して私は、”よくもまあ、言い表し難いことを言語化出来るものだ!”、と何度か驚嘆、感動させられたことがあります。
確かに、哲学的思考を通しても、愛、平安、そしてリアリティの消息は伝わるものです。
これは、幾分普遍妥当性に譲歩した、普遍哲学?の試みと言えるかもしれません。
普遍性に向けての一つの表現方法として、そういう試みは多いにあって然るべきでしょう。
私のようなオツムの足りない人間にはちと無理ですが...