人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と一如となる

2024-02-20 09:27:00 | 現臨、ハタラキ
精神的な道は、悟り、神と一つになることを目指すとはいえ、“私は悟りました、神と一つになりました!“、何てことを自分で言ってる御仁など、眉にツバをつけてみたくなるものですね。要するにクサイのです。
謙遜の思いというものもあるでしょうけど、一寸言えませんねえ...だから、そういう境地を目指しているなんてことも思わんでもいいのでしょう?
小池辰雄先生は、神と一つになる、神との直接性ということは言われませんでした。それはアブナイんだと。だけど、“私はキリストと一つ、キリスト直結だ!“、ということはいつも言われていたのです。
私は以前は、それがどう違うのかが分からなかったのですが、今は、これは実に重要なことで違うことが感じられてなりません。
キリストと一つ、一如となる...“一如“ということ。そこに曰く言い難い響きが伝わって来るものがあります。
“私は“、“私が“、神と一つになるのではない。“私は“、という我性というものは、キリストにあって無化されているということなのです。小池先生はこれを十字架と結びつけて説いていたのです。
“如“という、如しというのは、そういう思いを超える橋渡しみたいなものがあるという感じです。キリストというものが神人をつなげているものじゃないですか!
これに関して、wikiを引っ張ってみても、そういう説明は出て来ないのですが、私はこれは仏教的には如来のことを指しているように感じています。
阿弥陀如来。来るが如し。私が阿弥陀仏、無量光仏になるんじゃなくて、キリストと同じように、一如とされるのです。
“私は悟った“、って言うんじゃなくて、阿弥陀さんにあって悟りに与るということ...いつも言うように私がそうなるんじゃなくて、与るものなんです。
これはですね!...だから“私は悟った、神と一つになった“とは言えるもんじゃないですが、“神的な現臨と一つです!“、ということは言える、言えちゃうんです!
キリストの現臨、如来の現臨にあって!
そのように、“思いを超えせしめるものにあって“、一如になっているということなのです。
これは、現臨にある場と一つになっていると言った方がいいのでしょう。
だからと言って、“私はすっかり思いも欲望も無くなりました!“、何て言っているんじゃありませんよ!
そういう人というのは、多分人間を卒業しているはずなのです。生き神だか、あの世の住人だか、植物人間だか知らないが!
だから、“私は普通の人間を超えた境地に達した!“、何てことを臆面も無く、言いたがる人間というのは、クサイ...なるほどアブナイと言うのです!
この一如となることの消息は、私のような生来、自意識の強い人間にとって、どれだけ福音となることか!
これを蔑ろにした精神的な道はアブナイですよ!
コメント
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