人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨は一元も二元も超えている

2024-02-22 10:02:35 | 現臨、ハタラキ
前回の続き、補足のようなことになりますが、“現臨にある“意識状態というのは、神と一つになる、それと共にあるような感覚があるのです。
だけど、言い回しは微妙なのですが、それは“私が“神と一つになるということとは違うのでした。
そこには、神的なものと自己との二元性を言い表している、とは一応言えるのです。これは、ユダヤ、キリスト教などの所謂一神教で多くそのように説かれているものでも一応あります。
これに対して、主として禅仏教やインド的な非二元の道の方面から、“それは二元的な分離感が克服されていない!“、といったような批判が向けられたりするようです。
東洋は一で、西洋は二だとか...そんなもの知るかってんですよ!
人間の有り様がそんな大雑把な括りで語られてたまるか、と言いたい!
そういう紋切り型の言い方は、人間が考えて作り出したものに違いないでしょう?!
私がここで強く言いたいことは、現実に自分の思いを超えた、神的なものと一つになる感じに導かれるかどうか、ということなのです。
私自身も非二元の道にカブレかかっていた一時期などは、“神とか言うのは、ワンネスの境地に至るには及ばないのか?“、などと思ったりしていました。そうです。ただそう思い、考えていただけですよ。
だけどいくら、個人は一なるものに消えて、一つになることを目指し思おうとしたって、当然の如くそうなったりはしないのです。
いやしかし、ごく稀に私が“神に捉えられる“と呼んでいる、思考機能を失い、一個の私が消えてしまうように感じる意識状態(これは通常の現臨感覚が深まった状態のことです)になることもあります。
だからだから言っているのです。思い、為そうとする自分からはそんなことにはならないのだ、と!
このことは、東洋も西洋も、キリスト教も仏教も、一元も二元も関係ないはずなのです。
現実にそういうものに与ることと、思い、信じることとは違うのです!(宗教やスピでは、この信じることに帰されてしまうことが何と多いことか!)
肝心なことは、思い、観念を超えるということであり、そうなさしめるものを頂くという事なのです。
だからと言って、それは一時的に機能を失うということはあれ、直ちにそれが無くなることではありません。本当にそうなったら、人間として生きる機能自体を失うことになるでしょう。
つまりは、ニンゲンというものは、ニゲン性を生きているということなのであり、それを克服しようなどと言うのはズレているという他ありません。
ただ又、ここで強く言いたいことは、本来我々と神との関わりというものは、二元的に信じる対象というものを超えたものがあるということなのです。
この在り方はどうしても超えなければ(克服?)ならないでしょう。
現臨というものは、とにかく我々の思いを超えているのですから!
しかし、どうやって?...だから!、そのものを待ち望み、その臨みに与らなければならないのです!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする