神的なものと共にあることは、愛、平安、リアリティに与ることと言ってもいいでしょう。
しかし、このことは証明出来るものではありません。
愛、安らぎというものからしてそういうものであるのは言うまでもないですが、ここで言うリアリティというのは、普通“考えられている“、現実、事実とは違うもので、前のものと切り離されないもので同じことなのです。
言い方を変えれば、たとえこれらのことが証明されたとしても、あなたはそれに与ることは出来ないのです。
これが神的な、霊なるものと共にある、一つになるということなのです。
然るに、何故に宗教やスピ界隈には、神、霊なるものがあたかも証明出来るような事実として語られたりしているのでしょうか?
その存在性が証明されようと、あなたの内的実存とは何の関係も無いであろうのに!...
神のリアリティは、自己実存に照らせば自明のことなのですから!
この傾向の多くは、宗教的狂信者、カルト信仰などに見られるものです。
彼らは、信じている神、教え、陰謀論などの真実性を客観的事実に求めようと躍起になっているのです。
沈着冷静に科学的事実を証明しようとする学者たちに比べると、はるかに理性は飛んでしまい、肝心のその真実性のことも実はどうでもよくなって、ただ自分が信じたいこと、妄念のトリコになってしまうようです。
妄念とは、有るか無きか、分からないことを有ると頑なに信じ込むことであり、必ずと言っていいほどその出所は、自分が信じている誰かの言葉に過ぎないのです。
要するに、彼らは真実に神的、霊的なリアリティというものを知らず、それと伴う実存的意識というものにも目覚めていないのです。
だから、容易く他人の言動に追従、隷属してしまうのです。
観念に強固に囚われることにかけては、ある面で所謂唯物論者以上かもしれません。
ずっと理性的で、より内的に深まる可能性もある、実存的に神、霊を信じない人間も多く居るだろうから...
だから、たとえ神、霊のことが語られようと、観念の奴隷と化した者ほど、真の宗教、スピリチュアルの道に遠いものは居ないと言うのです。
彼らがどんなに瞑想を、祈りの行を、信仰生活をし続けようと、その形を真似ていても何にもならないのです。
出発点からしてズレてしまっているのでしょう。
このことに意識を向けられないのでしょうか?
言い換えると、ここでは神、霊なるものとは自分自身にとってどういうものなのか、ということを問うてみることです。そうすると、意識的になったりするのです。
自分が自分に...というのが難しいのであれば、そう、神に問えばいい!
勿論、誰かが言ってる神じゃなく、あなたの神に!
祈りも瞑想もこのことからズレてはあり得ないでしょう!
しかし、このことは証明出来るものではありません。
愛、安らぎというものからしてそういうものであるのは言うまでもないですが、ここで言うリアリティというのは、普通“考えられている“、現実、事実とは違うもので、前のものと切り離されないもので同じことなのです。
言い方を変えれば、たとえこれらのことが証明されたとしても、あなたはそれに与ることは出来ないのです。
これが神的な、霊なるものと共にある、一つになるということなのです。
然るに、何故に宗教やスピ界隈には、神、霊なるものがあたかも証明出来るような事実として語られたりしているのでしょうか?
その存在性が証明されようと、あなたの内的実存とは何の関係も無いであろうのに!...
神のリアリティは、自己実存に照らせば自明のことなのですから!
この傾向の多くは、宗教的狂信者、カルト信仰などに見られるものです。
彼らは、信じている神、教え、陰謀論などの真実性を客観的事実に求めようと躍起になっているのです。
沈着冷静に科学的事実を証明しようとする学者たちに比べると、はるかに理性は飛んでしまい、肝心のその真実性のことも実はどうでもよくなって、ただ自分が信じたいこと、妄念のトリコになってしまうようです。
妄念とは、有るか無きか、分からないことを有ると頑なに信じ込むことであり、必ずと言っていいほどその出所は、自分が信じている誰かの言葉に過ぎないのです。
要するに、彼らは真実に神的、霊的なリアリティというものを知らず、それと伴う実存的意識というものにも目覚めていないのです。
だから、容易く他人の言動に追従、隷属してしまうのです。
観念に強固に囚われることにかけては、ある面で所謂唯物論者以上かもしれません。
ずっと理性的で、より内的に深まる可能性もある、実存的に神、霊を信じない人間も多く居るだろうから...
だから、たとえ神、霊のことが語られようと、観念の奴隷と化した者ほど、真の宗教、スピリチュアルの道に遠いものは居ないと言うのです。
彼らがどんなに瞑想を、祈りの行を、信仰生活をし続けようと、その形を真似ていても何にもならないのです。
出発点からしてズレてしまっているのでしょう。
このことに意識を向けられないのでしょうか?
言い換えると、ここでは神、霊なるものとは自分自身にとってどういうものなのか、ということを問うてみることです。そうすると、意識的になったりするのです。
自分が自分に...というのが難しいのであれば、そう、神に問えばいい!
勿論、誰かが言ってる神じゃなく、あなたの神に!
祈りも瞑想もこのことからズレてはあり得ないでしょう!