私はここで、現臨にある意識状態というものは、ほとんど自分が自分であることになっている、自己認識、実存感覚を伴っている状態、と繰り返し言っているのです。
超越的なことと実存的なものは切り離されないものなのだ、と!
これは、直接的な感覚のことを言っているので、言葉ではうまく伝えられないのですが...重要なことはそういうことなのです。
ただ、神的な、霊的な現臨とかと言うと、その言葉から何やら自分の外からそういう霊的実体と関わる、もっと即実的に言えば、そういうものが憑依することなのか、という印象を与えてしまうこともあるかもしれません。
本当に言いたいことは前記したことであり、いつもそれが当たり前のように感じていたので、ほとんどそういうことは考慮して来なかったのです。
しかし改めて考えると...この二つのことは隣り合わせのものであるのも事実でしょう。
私自身それが芽生え始めた初期の頃は、そういう精神的なバランスを失う危機と向かい合っていたと言えるのです。
具体的に言えば、それは思考機能が後退、あるいはマヒしてしまう事態に起こりやすいということで、普通に考えてもそれは、精神生活の舵を取る主体者が不在となっており、いつ外部からその船を乗っとられるか分からない事態と言えるのです。
この場合は、言うまでもなく考え、思考する主体のことを言っているのですが、実に何がそれに取って代わるのかによって、自己実現の道か迷妄の道かに分かれるということになるでしょう。
つまりは、その思われた主体のその奥にもっと根本的な主体が隠れており、神の臨在と共にそれが顕わになることを、意識次元が開かれることと結びつけていつも言っているのです。
ただ、私も周りに人が集まっている中で、神的な現臨に捉えられて、すっかり思考機能が失われて、その意識の奥の主体に自分をゆだねていた状態など、滂沱たる涙が勝手に溢れたりして、多分見た目には何かの霊が憑依しているように映っていたかもしれません。
当の私はそうなっている自分を自覚しているのです。そう、自覚してなかったらどうなってんだか分かりゃしませんとも!
要するに、思考があろうと、飛ぼうと自覚している主体があるのかどうか、自己認識がなされているかどうかが分かれ道ということなのです。
だからと言って、これは普通でない(?)私の場合にあったことなので、誰もがそんなアブナイ道を通らなければならないということでは勿論無いですよ!
ただ一つ言えることは、この神、霊なるものを召喚させる道(?)は、既に自分の外から何かの霊が憑依する、といった観念に強く“取り憑かれている“人や容易くカルト信仰などになびいてしまうような人には不向きだ、とは言えるでしょう。
理由は先の通り、主体的な自己認識に向かう心性に欠けるということです。そういう人は。思考から離れるより先によく考えて、もっと内省的にならないとなりません。
というより、宗教やスピなど精神的な道においては、自己認識というものが如何に重要なものであるかということは自明なことではありませんか?
もう一つ、祈りというものは、それ自体その道の土台となるものだし、諸々の危険に対する防御ともなり得るものだと言うことも付け加えておきましょう。
いや、こういうことは賢明なる読者の方には要らん老婆心だったかも?...
超越的なことと実存的なものは切り離されないものなのだ、と!
これは、直接的な感覚のことを言っているので、言葉ではうまく伝えられないのですが...重要なことはそういうことなのです。
ただ、神的な、霊的な現臨とかと言うと、その言葉から何やら自分の外からそういう霊的実体と関わる、もっと即実的に言えば、そういうものが憑依することなのか、という印象を与えてしまうこともあるかもしれません。
本当に言いたいことは前記したことであり、いつもそれが当たり前のように感じていたので、ほとんどそういうことは考慮して来なかったのです。
しかし改めて考えると...この二つのことは隣り合わせのものであるのも事実でしょう。
私自身それが芽生え始めた初期の頃は、そういう精神的なバランスを失う危機と向かい合っていたと言えるのです。
具体的に言えば、それは思考機能が後退、あるいはマヒしてしまう事態に起こりやすいということで、普通に考えてもそれは、精神生活の舵を取る主体者が不在となっており、いつ外部からその船を乗っとられるか分からない事態と言えるのです。
この場合は、言うまでもなく考え、思考する主体のことを言っているのですが、実に何がそれに取って代わるのかによって、自己実現の道か迷妄の道かに分かれるということになるでしょう。
つまりは、その思われた主体のその奥にもっと根本的な主体が隠れており、神の臨在と共にそれが顕わになることを、意識次元が開かれることと結びつけていつも言っているのです。
ただ、私も周りに人が集まっている中で、神的な現臨に捉えられて、すっかり思考機能が失われて、その意識の奥の主体に自分をゆだねていた状態など、滂沱たる涙が勝手に溢れたりして、多分見た目には何かの霊が憑依しているように映っていたかもしれません。
当の私はそうなっている自分を自覚しているのです。そう、自覚してなかったらどうなってんだか分かりゃしませんとも!
要するに、思考があろうと、飛ぼうと自覚している主体があるのかどうか、自己認識がなされているかどうかが分かれ道ということなのです。
だからと言って、これは普通でない(?)私の場合にあったことなので、誰もがそんなアブナイ道を通らなければならないということでは勿論無いですよ!
ただ一つ言えることは、この神、霊なるものを召喚させる道(?)は、既に自分の外から何かの霊が憑依する、といった観念に強く“取り憑かれている“人や容易くカルト信仰などになびいてしまうような人には不向きだ、とは言えるでしょう。
理由は先の通り、主体的な自己認識に向かう心性に欠けるということです。そういう人は。思考から離れるより先によく考えて、もっと内省的にならないとなりません。
というより、宗教やスピなど精神的な道においては、自己認識というものが如何に重要なものであるかということは自明なことではありませんか?
もう一つ、祈りというものは、それ自体その道の土台となるものだし、諸々の危険に対する防御ともなり得るものだと言うことも付け加えておきましょう。
いや、こういうことは賢明なる読者の方には要らん老婆心だったかも?...