神に祈るという...
普通は神を対象にして、そう思い、意志している私が祈るというイメージをもたれるものでしょう。
勿論、私にもそうして祈ることもありますが、そういう在り方を超えてしまうことも多々あるのです。思い、為そうとする自分が祈るのではない!...祈らされているという感じになるのです。
そういう祈りには、どういう祈り言葉によるとか、何回祈るとかといった形はありません。思いを超えているのだから当然と言えばそうなのです。
何の神に祈っているかということもありません。だからそう思い描いたり、対象化することじゃないのですよ。
それは、くどくどとした説明は要らない、出来ない!、自分を超えたところからの祈りという他ありません。ただ、私をたらしめている、在らしめているもの、それを仮に神と言ってもいい...要するにそれは、神の現臨にある状態であるのは言うまでもありません。そこから祈りに導かれる。
それは、ですから愛、平安に与ることです。私はね、勿論そういうものを求めているのですよ!
悪いか?...私だけか?...いいや、そうであってもそうじゃない!
だって、思い、為そうとする自分からではない、と言っているのですよ!、そういうことも超えているのです。
私だけ、平安であることというのは無いはずなのです。勿論こういう祈りのようなことを通して、他人は平安に導かれるかどうかは分からないですよ!
又、そういう“自分の祈りで“、という風に思うとしたら、思い上がりも甚だしいことなのであって、自力作善、はからいの極みと言う他無いでしょう。
自分の思いを超えている、ということは、自分だけの祈りである訳が無いのです!
そこには、自ずから自他共に平安に与からんことを願わずにおれない心が生まれるのです。
神的なものと共に祈らされているということは、けだしそういうことなのでしょう。
特に他者のため、世界平和のために祈るということもなく、自他は分けられることなく、その両成へと意識づけられるのです。
神への祈りというものは、本当はこうした“神の祈り“につながるものでしょう。
そこに、自分だけの救い、成就を求めるということは、あろうはずなどないではありませんか?
これは、ともすればそういう方に傾きがちな、瞑想修行などについても言えるはずなのです。
すべての神(仏)の道は、自他一如に導かれるはずなのだから!...
普通は神を対象にして、そう思い、意志している私が祈るというイメージをもたれるものでしょう。
勿論、私にもそうして祈ることもありますが、そういう在り方を超えてしまうことも多々あるのです。思い、為そうとする自分が祈るのではない!...祈らされているという感じになるのです。
そういう祈りには、どういう祈り言葉によるとか、何回祈るとかといった形はありません。思いを超えているのだから当然と言えばそうなのです。
何の神に祈っているかということもありません。だからそう思い描いたり、対象化することじゃないのですよ。
それは、くどくどとした説明は要らない、出来ない!、自分を超えたところからの祈りという他ありません。ただ、私をたらしめている、在らしめているもの、それを仮に神と言ってもいい...要するにそれは、神の現臨にある状態であるのは言うまでもありません。そこから祈りに導かれる。
それは、ですから愛、平安に与ることです。私はね、勿論そういうものを求めているのですよ!
悪いか?...私だけか?...いいや、そうであってもそうじゃない!
だって、思い、為そうとする自分からではない、と言っているのですよ!、そういうことも超えているのです。
私だけ、平安であることというのは無いはずなのです。勿論こういう祈りのようなことを通して、他人は平安に導かれるかどうかは分からないですよ!
又、そういう“自分の祈りで“、という風に思うとしたら、思い上がりも甚だしいことなのであって、自力作善、はからいの極みと言う他無いでしょう。
自分の思いを超えている、ということは、自分だけの祈りである訳が無いのです!
そこには、自ずから自他共に平安に与からんことを願わずにおれない心が生まれるのです。
神的なものと共に祈らされているということは、けだしそういうことなのでしょう。
特に他者のため、世界平和のために祈るということもなく、自他は分けられることなく、その両成へと意識づけられるのです。
神への祈りというものは、本当はこうした“神の祈り“につながるものでしょう。
そこに、自分だけの救い、成就を求めるということは、あろうはずなどないではありませんか?
これは、ともすればそういう方に傾きがちな、瞑想修行などについても言えるはずなのです。
すべての神(仏)の道は、自他一如に導かれるはずなのだから!...