人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

相対的なものと絶対的なもの

2024-08-27 09:58:53 | 宗教
宗教やスピリチュアルの道には、数多の異なる教えや方法があります。
言うまでもなく、そういう精神的な道であっても人間がやっていることには変わりない訳で、違うのが当たり前なのです。それが良いも悪いもありません。そうなっているのだから!
これは、我々のそうした相対的現実というものを表しているのです。だから、違って当たり前であることを弁えなければならないでしょう。
しかし、そうした比較論の中には、自分が信奉している宗教、思想をことさら特別視、絶対視し、その他に比して如何にそれが優れたものであるか、について挙げつらっている向きもあるものです。
私にはこれがもう、違和感を覚えてならないのです。そこに感じられるものは、その信じる対象への固執、我執の念といったものでしかありません。
それがその方便的な教えなり方法といった、相対的な人間の有り様についてのものならまだマシなのですが、もっと直接な神、霊なるものに関してのものならば、もうムシズが走るほど反感を覚えずにおれません!
キリスト教の神とイスラム教の神とはどう違うのか?...神を説かない仏教とはどう違うのか?...んなもん、知るかってんですよ!
キリスト教というのは、ただ世間常識で、”聖書を、イエスを救世主と信じ...等々がキリスト教”と認知されているものに信じ従っているだけのもので、実質その信徒たちが直接、実存的に関わる神的存在については、その各々の内的現実に帰されるべきものでしょう?
そこで、ベラベラと厚かましくも、”へ理屈”を並べられる人間というのは、神、神的なハタラキのことなど何も分かっていないのです。
もし、そういうものに出くわしたならば、自分の思いは超えられ、如何なる先入観、固定観念も消え去り、真っ白、真っさらな心的状態にならされるはずなのです。
つまり、自分を超えたものについては、あれこれ挙げつらうことなど出来ないし、それは極めて不遜な精神的態度と言えるでしょう。
このように、我々が直接関わり、交わる神というものは、何教、何神と名付けることの出来ないものであり、それは絶対的なものと言うことが出来るでしょう。思いを超えているということはが絶対的なことなんです!
そういうものを対象化し、比較したりするのは、ナンセンスの極みと言う他無いでしょう。
然るに、相対的なものを絶対視する人間には、相対的なことと絶対的なことの区別がつかず、混同しているのです。
大体、かかる歪んだ精神は、強固な思念に支配されていて、それから自由になること(それは思いを超えたハタラキに依るしかないだろう...)が困難なようです。
そこに、相克的現実というものを見せられるばかりです。そこに神という言葉は如何に語られていても、神の臨在、その現実というものは何一つ感じられません。
逆説的ですが、我々一人一人が絶対的なものを内に頂くことが出来れば、真っさらな心で、我々の相対的現実を受け入れることが出来るでしょう。
人類の相克対立の歴史の要因は、相対的なものと絶対的なものとの混同ということに尽きるでしょう。
そして、真に普遍調和世界をもたらすものは、我々が信じる神でなく、我々の思いを超えて神が顕わになることなのではないでしょうか!...


コメント
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