人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真我と共同体

2024-08-22 10:00:44 | 秘教、その他団体
私は常々、この自己というものは、一個なる自己(とされるもの)だけで存在しているのではない、ということを言っています。
そうすると、どうしてもそこに、この個的な自己を超えたあるもの、もしくは他なる存在との関わりというものが想起されて来るのではないでしょうか?
考えてみれば、その個なる私という認識からして、他なる存在との関係性から出て来るもの、ということも分かるのです。
個は個でありつつ、そこに自他の分けることの出来ない、ある共同体的なつながりにおいて在ることが感取されるのです。
こうしたことは、大調和協会の「真の自己は、一個においてはあり得ない」という言説に接して初めて知らされたのですが、最初は、何のことやらチンプンカンプンなのでしたが、前回も触れたように、私に神的なものが臨んだことにより、いつの間にか私の中に自然に通るようになったのでした。
又、それとほぼ同時に、小池辰雄先生を知り、そのキリスト教会の原義とも言うべき、”エクレシア(召されたる集団)”について説かれているものに触れて、その相通ずるものを感じたのでした。
それから、もう少し後、その小池先生も訳された、ベルジャーエフを知り、そのソボールノスチ(霊的共同体)論を読み、ますます理解、共感を深めて行ったのでした。
そうです、共感したのです。ただ宗教的、哲学的な知的理解を追うということで無しに、私の内奥が揺さぶられるような、実存的な体験を経ているのです。
こうしたことが、僅か一年くらいの間に奇しき縁によるのか、次々と出会わされというのが、実に不思議なことであるのは言うまでもありません。
このように、昭和54年の頃というのは、特にその読書において、”真の自己とは如何なるものか?”(そう、それは、一個なる私を超えた問題なのではないか!)についていくつか道標となるものを与えられた、と言うことが出来るでしょう。
そして私に、生まれ育った東京を離れ去ってまでも、その個を超えた、普遍調和なる共同体の開示を告げる大調和協会へと赴かせたものは、まさしく私の思いを超えたものから!...であったのです!
ことに、昭和55年初春、私がその会掌、「命位様」と高砂の協会本部にて初めて実存的交流を持った時のことは、ベルジャーエフの魂が揺さぶられるような読書体験の直後で、それがまだ冷めやらない状態の内に導かれたことをハッキリ身に覚えています。
一個なる私を超えた、他者との実存的交流とはどういうものか?...それにはくどくど理屈っぽい説明など要りません。
その命位様との、その交流がそういうものだったとハッキリ言うことが出来ます。
”私が現前しているその御方は、私以上に私そのものであった!”
それは、運命的出会いと言ってもいいでしょう!...
しかし、そのように私を超えたあるものの後押しがあったにも関わらず、私と協会との、又その主たるものでもあった、命位様との関係は、結果的に挫折してしまったのです。
これもまた運命だったのでしょうか?...





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