人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

大聖業...ハタラキ

2024-08-20 10:02:00 | 秘教、その他団体
神の顕現...神が顕れた、と言っても、見ている私が居て、向こうに神を見ているまま、そういう二元的な在り様のままでしたら、この私は何も変わらないでしょう。
それで、いくら神を信じると言っても、それはただ景色を見ていることと変わりません。
真に神が顕れたのなら、この思っている私、この身を割って開き、その我が内に隠れていたものが顕わにならなければならないのではあるまいか?
私は求道の初期から、このことを問題にしてきたのです。私がそう思い、望むというより(そうです!)、私の思いを超えて、駆り立ててくるものを感じていたのです。
段々、そのことが自覚的になって参りまして、何度も書いているように、昭和54年初頭、上記のことを裏付けるように、私を超えたところから電撃を受けたように、文字どおり何かに感電したように、あるハタラキに捉えられてしまったのです。
その実体は何かは分からないが、具体的な、そのハタラキに他なりません。
一個なる、思っている私が居て、対象的に神を見たり、信じたりする、二元的な在り様は、このハタラキによって突破されるのです。
それは、神的な超越的なものと“私は在る“という自己のことは、切り離されないものとなり、実存的な意識世界が開かれることを意味しています。
このことがあってから少し後、数ヶ月前、始めて訪れ、頂いた幾つかの書き物を読んでも、いや何をどう読んでいいか分からないという状態ばかりのものが、すうっと通るような感じになり、その大調和協会なる謎の団体のことが、にわかに私にごく近いものに感じられてならなくなりました。

「人類..は、今その、新しき根拠に 於いての、生活..創造を、大作用せんとしているのでございます...
今その、新しき天地は、来たらされて、自然調和の世界が、将に、開顕されんとしているのでございます」(松本命御口述「大調和世界開顕之聖業発祥」)

これこそは、我ら人類(?!)の上にその我らの思いを超えたところの大いなるハタラキが、我らに大作用をし始めたことを告げるものでなくて何であろう!...それは、そこで大聖業(おおみわざ)とよく呼ばれていました。(そもそも、ずっと私が使っているこのハタラキという言葉は、この秘教団体で呼び慣わされているものから借りているに他ならないのです)
その団体で、聖典とされている、その書き物を紐解いても、神や仏のことはほとんど出てきませんが、ここで説かれているものは、宗教なのか、何かということは仔細な問題でしょう。
それはおそらくこれまでの信じる宗教とは、違う次元のものが顕れたことを表しているのでしょう。(それでいいのです。それでいい!)
我々の思いを、力を超えたものが、我々と一つにハタラキ、顕わになった!
そこに何らの頷かざるもの、疑念なとというものなどあり得ようか?
しかも、それはこれから我々が研鑚を深めていって到達するものでなしに、現在完了として、顕われた、成ったことが告げられているではありませんか?
あの当時の、何かの火がついたように、燃えやすい私の心性から、後先のことを考えずに、その”人類使命運動”(?!)に飛び込まんとする衝動を抱いたとしても不思議では無かったでしょう?...




コメント
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