毎度のことながら神が何かということは分かりません。
しかし、神という言葉は持ち出さずとも、特別な信仰を持たずとも自分を超えたあるもののことは、誰でも直感出来ると思うのです。
それ無しに、どうしてこの人間世界が立ち行くことが出来るでしょうか?
人間は一人では生きてはいけない、否その成り立ちからして、その個体だけで成っているものではない、ということも私の縁で言えば、大調和協会のその聖業(みわざ)などを通じて知らされ、そのことを私自身も直接的に知らされているのです。
だから、その自他一体なることに目覚め、人間存在に本来的に根付いている、その共同体的なものを指向し、その成就に務めなければならないのです。...って、そうではあるのだけど、私が本当にここで言いたいことは、その共同体的な在り方をどうこうしようと言うことではありません。
その思いを超えた、神的なもの無くしてどうこう出来るはずがないではありませんか?
その自他一体の調和世界の在り様は、神あってこそのもの、人間相互のつながりというものは、神とのつながりを欠いては成り立ちようが無いのです。
それを欠くならば、ベルジャーエフが説き明かしたように、コミュニオンという霊的な共同意識は、共産主義体制に見る、極端な集合主義へと変質してゆかざるを得なくなります。
神、聖霊、キリストを通してつながる霊的共同意識も外的な教会制度の内に蒸発してしまうに至るのです。
これは、ほんの一例なのでして、人間が人間だけで営む、すべてのことに当てはまることと言ってもいいでしょう。
思想、主義、そして神信仰というものからしてが!...私の思想、主義、信念、信仰.、方法..”この私の信じる教え、方法は他とはこれこれの点が違うのだ!”、とその特質性を主張してやまない...そこには、自らの他に比べての優位性を持ちたいという心根が伺える...いくら調和世界のことを外に説いていても、人間だけの人間は、どうしても相対観から自由にはなれないのではありませんか?
私、我々の、信じ、行っていることに取り込んだことは、すべてが私、我々の思いを超えたものから切り離され、その本来性から逸脱し、それを失うに至ると言ってもいいのではありませんか?!
ある時、”そんなこと言ったら君イ、世の中立ち行かなくなるではないか?”、と、先のようなことを話している中で、向けられたことがありました。
その時は、その言葉に押し切られ、妥協したような形になったのでしたが、いや、根本的に立ち行かなくなるのは、人間存在の根底からそうなってしまうのは、実に上記のことが問題となるのではないか!
神的なものと切り離されれば、すべてのことが行き詰まり、霊的な生命が枯渇するに至るのではないか!
だから、いつも神に意識を向ける必要がある、祈ることがそれにつながると言うのです。
もう、私はずっとここでそういうことを言い続けているのですよ!...これが私の信仰、祈りなのです!...って、そおではない!...私のとか我々のとか、私、我々が思っている、やっているということは余計なことなのです!
(私はね...)それが何かは分からないけれど、この私の現実に顕われた、出て来たものにどこまでも、心を、意識を開いて、その導きのままに、なされていくだけなのです。
取りて、為すのではない!、成って来るものにどこまでも開いてゆくのみ!...
もう、妥協などはすまい!、絶対信があるのだから!、それが私の信!...(でもないか?)
しかし、神という言葉は持ち出さずとも、特別な信仰を持たずとも自分を超えたあるもののことは、誰でも直感出来ると思うのです。
それ無しに、どうしてこの人間世界が立ち行くことが出来るでしょうか?
人間は一人では生きてはいけない、否その成り立ちからして、その個体だけで成っているものではない、ということも私の縁で言えば、大調和協会のその聖業(みわざ)などを通じて知らされ、そのことを私自身も直接的に知らされているのです。
だから、その自他一体なることに目覚め、人間存在に本来的に根付いている、その共同体的なものを指向し、その成就に務めなければならないのです。...って、そうではあるのだけど、私が本当にここで言いたいことは、その共同体的な在り方をどうこうしようと言うことではありません。
その思いを超えた、神的なもの無くしてどうこう出来るはずがないではありませんか?
その自他一体の調和世界の在り様は、神あってこそのもの、人間相互のつながりというものは、神とのつながりを欠いては成り立ちようが無いのです。
それを欠くならば、ベルジャーエフが説き明かしたように、コミュニオンという霊的な共同意識は、共産主義体制に見る、極端な集合主義へと変質してゆかざるを得なくなります。
神、聖霊、キリストを通してつながる霊的共同意識も外的な教会制度の内に蒸発してしまうに至るのです。
これは、ほんの一例なのでして、人間が人間だけで営む、すべてのことに当てはまることと言ってもいいでしょう。
思想、主義、そして神信仰というものからしてが!...私の思想、主義、信念、信仰.、方法..”この私の信じる教え、方法は他とはこれこれの点が違うのだ!”、とその特質性を主張してやまない...そこには、自らの他に比べての優位性を持ちたいという心根が伺える...いくら調和世界のことを外に説いていても、人間だけの人間は、どうしても相対観から自由にはなれないのではありませんか?
私、我々の、信じ、行っていることに取り込んだことは、すべてが私、我々の思いを超えたものから切り離され、その本来性から逸脱し、それを失うに至ると言ってもいいのではありませんか?!
ある時、”そんなこと言ったら君イ、世の中立ち行かなくなるではないか?”、と、先のようなことを話している中で、向けられたことがありました。
その時は、その言葉に押し切られ、妥協したような形になったのでしたが、いや、根本的に立ち行かなくなるのは、人間存在の根底からそうなってしまうのは、実に上記のことが問題となるのではないか!
神的なものと切り離されれば、すべてのことが行き詰まり、霊的な生命が枯渇するに至るのではないか!
だから、いつも神に意識を向ける必要がある、祈ることがそれにつながると言うのです。
もう、私はずっとここでそういうことを言い続けているのですよ!...これが私の信仰、祈りなのです!...って、そおではない!...私のとか我々のとか、私、我々が思っている、やっているということは余計なことなのです!
(私はね...)それが何かは分からないけれど、この私の現実に顕われた、出て来たものにどこまでも、心を、意識を開いて、その導きのままに、なされていくだけなのです。
取りて、為すのではない!、成って来るものにどこまでも開いてゆくのみ!...
もう、妥協などはすまい!、絶対信があるのだから!、それが私の信!...(でもないか?)