人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

心身一如

2016-06-10 00:04:14 | 哲学・思想
”身に覚える”と言う表現は度々触れているように、観念的に思う、とか信じる、という事と区別する意味で言っているのです。
身…実際に身体的な感覚を伴うものですが、意識的というか内的感覚が伴っているのです。
すると、それは精神的なものか? という見方も出てきそうですが、それじゃ元に戻りそう…
意識しただけで、身に…という事は思う事より先に有り、根本的なものということです。
このように、身と意識というものは密接なつながりが有るのは間違いないのです。
西欧的な観方では今まで肉体と精神とは二分されてきましたが、今後は心身一如という事に光が当たってくるでしょう。
宗教や精神世界では、言い表されているとおり、”精神は肉体より優位にあるものだ”という観方に偏っていたようです。
じゃ、実際のところはどうか…いくらやる気が有っても体がいう事聞いちゃくれないのは歳の為だけじゃなさそうですね。
精神力で病気やケガを癒すことが出来るのは特殊な人だけです。
で、そういう奇跡の人の多くも病気で早く死んだりしています。
人間は死を克服することはおろか、死の恐怖の思いすら克服出来ないでいます。
肉体のことは理解も、コントロールも出来ないのです。
このことは、動かそうとする先に臓器が動いていることを思えば、お分かりになることでしょう。
私にはそこに見たままの肉体機能の奥に意識と結びついた途方もない有機的つながりというものを想定せずに居れません。
肉体は意識とつながりが有るので、単純に物質とは言い切れませんが、物質というものにしたって、”それは低次のもので、より進化することはそれを超える事である”と考えるのは、そういう物質と分かたんとする精神なのです。
史的唯物論というものは今や破綻した感が有りますが、それは全てのイデオロギーと同じく精神主義の一形態なのです。
これまでの世界の不調和、相克の様相の根底にあるのは諸イデオロギーの対立でしょうが、これはある精神論者が言うように、精神が物質的段階に留まっているからなのでしょうか?
私はむしろ精神が独り歩きし出して物質的なもの、自らの肉体的なものから切り離された、それ自体不調和な事態に陥ったためだろうと思います。
精神、思考はそれだけで成っているもの訳では無く、本来の肉体的、物質的なものと結ぶ事が調和への道と言えるのではないでしょうか?
あまりにも我々は思考というものに支配権を与え過ぎていた、それが諸々の問題の原因となったようです。
如何に肉体的、物質的なものは、精神によって固定概念で枠づけされてきたことでしょう!
意識、思考、肉体…見えるもの、見えないものを含めて与えられているもの、持ち前のものは全てが有機的につながっているのでしょう。
これからは、それまで我が物顔でのさばっていた思考は、一歩後退してこの三位一体の自然なバランスがもたらされるように感じます。
もう、観念的に思い描いた世界、抽象的に信じ込むことだけでは、我々は立ち行かなくなってきているのです。
身に覚える、というものは難しく考えたって理解出来ません。いやむしろそうなることがブロックになっているというべきか…我々は誰しもがそうと知らずに経験している筈なのです。
気晴らしに紫陽花が咲いている公園などで寛いでみれば分かろうというものです。
”身も心も”リフレッシュに預かることでしょう。
これが深く心身に浸透すると、オートマチックになってくるのです。それには意念でハタラキかけるので無しに、意識的になって自然にハタラクものに打ちまかせるだけです。
それは、修行して新たに獲得するようなものじゃなく、本来我々の心身に息づいているものなのです。
もっとも鈍重で粗雑で低いものとされてきたこの肉体こそ、見えざる神秘が隠された神器なのではないでしょうか?
それは意識の解明と共にフタ開けされることでしょう。
元々心身一如的なものの復権です。




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