私は普段、瞑想修行などをしている訳ではないので、サマーディ(三昧)という言葉にはあまり馴染みがありません。
せいぜい思い当たるのは、"道楽三昧"くらいのものでしょうか...(笑)
しかし、ラマナ.マハルシのこの言葉に接すると、無視することが出来ないものを感じます。
「ただ、サマーディだけが真理を顕わにすることが出来る。想念は真理の上にヴェールを覆いかぶせる。そのため、サマーディ以外に真理を実現する術はない」(「あるがままに」/ナチュラル.スピリット刊)
私は、このサマーディというものについて、瞑想などで言われるのは、外界のことが分からないくらい、内的なことに没入するような、恍惚状態みたいなものと結び付くもの、という風に思い込んでいたのですが、実際にその極端な例である、ニルヴィカルパ.サマーディ(無分別三昧)と言われる状態においては、「その人の肉体と精神とは機能をやめ、...傍らの人から見ると死体と同じである。...現象の変化にも、全く反応を示さなくなり、肉体は21日で枯れ葉のように朽ち果てる...」(田中嫺玉著「インドの光ー聖ラーマクリシュナの生涯」/三学出版刊)という記述も残っているのです。
自分という個はなく、全体に溶け去ってしまう、というノンデュアリティで言い広められているのは、こんな様態のものかと思わされますが、現実にその周辺で、不審死のような事態が起きないのは、多分それは修辞的な表現で言われるか、そう思い描かれているだけだからでしょう。
これに関して、そのニルヴィカルパ.サマーディとは、かように恐ろしいものなのか?という質問に対し、ラマナは諸々の他の見解の異なる意見とは別に「ニルヴィカルパとは努力を要しない無形のチット(意識)である。一体、どこに恐れることがあろうか? 自分自身であることに何の神秘があるというのだろうか?」(前掲書)と答えています。
それは又、恍惚状態と結び付くものでもなく、その状態を保ちつつ、日常生活を送るのに支障はないものだと言います。
どうも同じようにそこで語られる、"心が破壊される"というような恐ろしい?言葉から、先の"枯れ死"のような事態を連想させてしまうようです。
ラマナは(詳細は省きますが)、いくつかの異なるサマーディの様態について述べており、強調されるものは、それを保つことにことさらな努力に依存しない、常住真我と共にある、サハジャ(自然な).ニルヴィカルパです。
私はしかし、そういう境地を目指して瞑想修行に励んでいる訳ではないので、これ以上多くは語れませんが、私がしばしば"現臨にある"と呼んでいることと通うものが感じられます。
それは、瞑想などの決まったアプローチに則らずとも、常住息づいているのが感じられ、ごく自然に意識に上ってきます。
サマーディというものが、いくぶん内的な方に意識付けられるのに対して、こちらは自己を超えた方に向けられると言えるでしょう。
"自然、自ずから"ということが肝心なことで、どうして、こういうことになったのかが分からないくらい、生来的なものを感じています。それは、自分が自分であるという感じから来るのでしょう。
微妙な言い回しですが、"現臨に捉えられる"と言った場合、ある主の法悦状態を伴っているものを指していることもあるのですが、そういうものが、あろうとなかろうと、とにかく意識すればいい...意識というものは、ことさら意識を働かさなくとも、そこにある(何のこっちゃ分からないですが)..."サマーディ以外に真理を実現する術はない"...現臨というものも、神なるものの現れそのものではないでしょうか?
これが、日に日に耳鳴り(これはまだ研究の余地がある)、神鳴りとともにより深く、浸透してきているのを覚えています。
せいぜい思い当たるのは、"道楽三昧"くらいのものでしょうか...(笑)
しかし、ラマナ.マハルシのこの言葉に接すると、無視することが出来ないものを感じます。
「ただ、サマーディだけが真理を顕わにすることが出来る。想念は真理の上にヴェールを覆いかぶせる。そのため、サマーディ以外に真理を実現する術はない」(「あるがままに」/ナチュラル.スピリット刊)
私は、このサマーディというものについて、瞑想などで言われるのは、外界のことが分からないくらい、内的なことに没入するような、恍惚状態みたいなものと結び付くもの、という風に思い込んでいたのですが、実際にその極端な例である、ニルヴィカルパ.サマーディ(無分別三昧)と言われる状態においては、「その人の肉体と精神とは機能をやめ、...傍らの人から見ると死体と同じである。...現象の変化にも、全く反応を示さなくなり、肉体は21日で枯れ葉のように朽ち果てる...」(田中嫺玉著「インドの光ー聖ラーマクリシュナの生涯」/三学出版刊)という記述も残っているのです。
自分という個はなく、全体に溶け去ってしまう、というノンデュアリティで言い広められているのは、こんな様態のものかと思わされますが、現実にその周辺で、不審死のような事態が起きないのは、多分それは修辞的な表現で言われるか、そう思い描かれているだけだからでしょう。
これに関して、そのニルヴィカルパ.サマーディとは、かように恐ろしいものなのか?という質問に対し、ラマナは諸々の他の見解の異なる意見とは別に「ニルヴィカルパとは努力を要しない無形のチット(意識)である。一体、どこに恐れることがあろうか? 自分自身であることに何の神秘があるというのだろうか?」(前掲書)と答えています。
それは又、恍惚状態と結び付くものでもなく、その状態を保ちつつ、日常生活を送るのに支障はないものだと言います。
どうも同じようにそこで語られる、"心が破壊される"というような恐ろしい?言葉から、先の"枯れ死"のような事態を連想させてしまうようです。
ラマナは(詳細は省きますが)、いくつかの異なるサマーディの様態について述べており、強調されるものは、それを保つことにことさらな努力に依存しない、常住真我と共にある、サハジャ(自然な).ニルヴィカルパです。
私はしかし、そういう境地を目指して瞑想修行に励んでいる訳ではないので、これ以上多くは語れませんが、私がしばしば"現臨にある"と呼んでいることと通うものが感じられます。
それは、瞑想などの決まったアプローチに則らずとも、常住息づいているのが感じられ、ごく自然に意識に上ってきます。
サマーディというものが、いくぶん内的な方に意識付けられるのに対して、こちらは自己を超えた方に向けられると言えるでしょう。
"自然、自ずから"ということが肝心なことで、どうして、こういうことになったのかが分からないくらい、生来的なものを感じています。それは、自分が自分であるという感じから来るのでしょう。
微妙な言い回しですが、"現臨に捉えられる"と言った場合、ある主の法悦状態を伴っているものを指していることもあるのですが、そういうものが、あろうとなかろうと、とにかく意識すればいい...意識というものは、ことさら意識を働かさなくとも、そこにある(何のこっちゃ分からないですが)..."サマーディ以外に真理を実現する術はない"...現臨というものも、神なるものの現れそのものではないでしょうか?
これが、日に日に耳鳴り(これはまだ研究の余地がある)、神鳴りとともにより深く、浸透してきているのを覚えています。
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