“神は人の思いを超えている“
我ながらホントくどいな、と思います。
でも、こうしていつも書いていて、感じることはそういうことばかりなのです。
神は思いを超えているということは、”神のことは分からない!”と言っているに等しいのです。
私は幼い時から神を信じ、求めて来ました。
だけど、未だに神について分かったことなどありません。分かったつもりになったことなら何度もありますよ。
神は唯一神、多神、汎神...と様々な宗教で、異なる神が説かれ、そのいずれかが正しいと判断して、各々の信者はその宗教に従って行きます。
彼らは、自分なりに神についての何か結論を得たのでしょうか?
結論とは、頭の中だけで何らかの決着をつけたつもりになるというだけのことではないでしょうか?
”神など居る訳ない!”、と決め込む人もホントはどうか分からないはずなのに、そういうことにしているのでしょう。
人は何故、そうして結論を求めようとするのでしょうか?
何か不安、恐怖があるからではないでしょうか?
神?、何かの霊?、得たいの知れないもの(こう感じさせるものの多くは、得たいの知れない宗教からイメージされるようです)...それに捉えられると自分は、どうなってしまうのか?
だから、神のことは分かってから信じよう!...いつ分かるのだろうか?
どっかで手打ちにしないとならない、落ち着かない。
しかしそこに、本当に”落ちる“、ということがあるでしょうか?
落ちるところに落ちる...これは”落ちた!“と思うことじゃありません。体はまだどっかに置き去りになってたりして...
それは、自分のすべてが安らぐこと...つまりはそこで思いは超えられるのです。
愛、安らぎがある!...だったら、分からなくてもいいではないか?!
神?、いや極端な話、サタンだっていい!...このものの他に本当に落ち着くということは、どこにも見い出されないのだから...
神についての結論(の如きもの)...もう、結構なトシになって、やっと神は決して分からないものだ、ということが分かった!(気がします)
ゆだねてもヒトとしての意識はありますよね。その意識がこのブログの熱意だとしたら、私にとって学びは多いのですが、この辺にいたします。
ありがとうございました。
最新の記事でも書いているとおり、自意識(思考?)を超えたものにゆだねるかどうかの違いはやはり大きいようです。
ここを理解しないと、ずっと言葉のキャッチボールが続くだけだと思います。
私の場合、「私」を意識すると「空体」と対極の「身体」に向けられるのです。結果、身体を深く掘り下げるしかなく、それを突き抜けてようやく空体にたどり着きました。
その根本に意識とは何かと言う問いがあり、自分の認識する世界を満足させる答えがエネルギーだったのです。
身体を形作っているエネルギーは自分の体内を一塊にする閉じたエネルギー(不完全にですが)であって、これが自己意識であって、私空間をつくっている。
一方身体を包む形で存在する宇宙空間の全エネルギーの働きを宇宙意識と考え、公空間をつくっていると考えました、
意識は他者に対するよりも前に、自分に向けられる。
そして他者は自分ではないものとして意識に登らせるのですね。
それゆえ自己意識は他人には知り得ず、己だけの世界観を作るしかなく、仮想とならざるを得ない。人は生涯私空間に生きる定めなのです。
五次元はこの定めの中で生きるしかない人間が、より深く真実と触れ合えるための思考方法なのです。
覚醒するのが目的ではなく、人間の虚構性を認め、そこからいかに真実に近づくかの方法論と言えばいいのかもしれません。
この方法論で本当にいくらかでも真実に近づけるのか、その検証をここで学ばせて頂いているのです。
最後に、認識は言語を媒体にします。言語は自己意識を具現化しますね。それと同じように、宇宙意識を具現化する言葉がある筈です。たとえば素粒子がてんでバラバラに存在するのではなく、寄り集まって人体を作る。この具現化を担うものを私は宇宙語と考えました。物理学ではそれを統一理論と呼んでいるようです。
これは信じる信じないのレベルではなく、存在そのものとして認識が捕える虚構なのですね。
私の場合、”私は...”、と意識すると、そう考えている私に意識が向けられてしまうので、超えた方に向く、というか向けられてしまうのです。勿論それはそうイメージするということでなくて、同時に臨んでくる(現臨)感じのものです。
思考による仮想はダメということは勿論無いですね。
思考にもその源というものがあり、本来つながっていると思います。
これもまたその通りですね。それに続く洞察もまったくその通りだと思います。
認識と言うのは、相手を理解する方法なのですよね、こちらが操作して都合のいい答えを導こうとするのが、科学的認識で、他に自分の感情を正当化する認識もあります。既成概念に沿った認識も然りですが。これらは自分の側から生まれた認識であって、それは全て仮称なわけです。
けれども直感だけは、相手から直接答がやってくる。これは経験的に理解できる真実だと思います。
科学者が真理を発見するときには、多く直感から来ているという話は味わい深いですよね。
あちらとこちらは、それゆえ確かにつながっているのですね。あちらとこちらは一体のものであるという証明だと私は思います。
つまり私は神であるという理解は正しいし、そう意識することでより直感のパイプラインが太くなるという実感があります。私の言う空体は実のところ、この一体が前提なのです。現臨が主体となって身体を認識する。この世界観は(直感)によってのみ成り立つのです。
ただ私はそれだから認識が作り出す仮想空間をダメだとは言いません。それもまた人間(こちら側)が生み出す紛れもない命の営みなのですから^ね^
しかし、愛、平安を感じることと同じく、認識というものがすべて本物でないとは限らないと思います。
思考を超えた、あるいはその元なる意識(これも仮称なのですが)次元に根差した直感的認識というものもあるでしょうから...ここから切り離されることが仮想的なものになってしまうのでしょう。
私は、貴方の例えば空体という表現からそういう分離感ではなく、一体感が伝わるので不穏な波は感じませんよ。
こちらこそ有難うございます。
今回の貴方様の返信には「私は神である」論?の傍証が感じられまし^た^
あくまで私の考え方を書いているだけで、貴方様のことを知ったかぶって断定しているのではありません。その上で何受けとめられるものがあればただ嬉しいだけです。
{超えた方からハタラキかけてくるものがある}
それにアクセスするには{元々あるものに向かう、向かわせられる}
何を越えたものなのか、言うまでもなく私の認識世界であって、そこから働きかけてくる。つまり主体は越えたもの(現臨)である証しでしょう。
それを裏返せば、私の認識世界からアクセスするのはどこに向かってなのか。
それは現臨以外にありえませんね。その現臨は認識世界の現れるとうの昔から存在しているもの。すなわち真なる主体であることを暗に知らしめているのですね。
そして最も重要なのは、現臨が私に働きかけ、私が現臨にアクセスするという構図です。大きな視野でこれを眺めれば、自然に見えて来るのが、この大きな運動こそ切り離せない一つの存在。すなわち現臨であり、私はその姿を写し取る感覚器のようなものだということが分かってきます。
現臨を神と読みかえればもっと多くの人がその真実を出来るかもしれませんね。
何より現臨と私を一つの存在と考えることで、平安が生まれます。その地点から見ると、覚醒しようと躍起になる人たちは、高級な精神分裂症のように私には見えますね。
漠然と祈ることで、貴方様は理想的な一体感を得られているのだと私は思います。素晴らしいことですし、私などにはそのことが励みになるのですから。
つまり私の書き込みは、決してその一体感に不穏な波を立てようとしているのではありません。
学ぼうとしているのです。
お付き合い頂いて、ありがとうございます。
貴方の見方から大まかにですが、、思いを超えたものには、こちらは、ただゆだねるしかないか、こちらの努力、鍛錬によるのかどちらか、(自力ー他力?)に分かれるという風に感じられるのですが、現実にはこちらに直接触れてこなければ、ゆだねようがありません。
私が強調していることは、超えた方からハタラキかけてくるものがある、ということなのです。それを現臨と呼んでいるのです。
それにアクセスすることは、何も無いものに向かうということではなく、元々在るものに向かう、向かわせられる、ということだと思います。
その方法は、多分?人それぞれあるでしょうが、私はまり方法にはとらわれてなくて、漠然と祈ることを言っているのです。
当然ですね。むしろ逆に、平安、幸福に与ることが何よりも先にあるのだと思います。それはあったしこれからもあるでしょう。
思考はその上に乗っかって後出しで仮想世界を思い描いているだけなのでしょう。
進化と言うのは、思考の側からの表現であって、現臨(空体)=思考を越えてハタラキかけるものの側から言えば、「ようやく迷いから覚めたか」と言うのかもしれません。
全く同じ理解だと思います。
実はそう思うからこその、ご迷惑な私の絡みなのです。
この地点に立って見ると、
①力を越えた働きにここですべてを委ねるのか
あるいは、②認識と言う竹光であくまで可能性を追求するのかと言う分岐点なのですね 。
①を進むと、人間の本流は、相変わらず偶然と努力と鍛錬によって飛沫のように現れる覚者だけが真の平安と幸福を得る世界で終わる(かもしれません)
②はイカロスのように見えますが、五次元思考を知った今、私はまだまだ人間は空を正しく(ありのままに)認識して理解する方法が残されていると考えるようになったのです。
既成概念の世界からありのままの空の姿に気付くこと、これがつまり竹光の進化であり、竹光が本物になる可能性を秘めているのです。
その可能性は、まさに、かのハタラキを感受されるシタテルヒコ様の存在が担保となるのです。
「私は神である」すべてを突き詰めてみたら、そう感じる瞬間があるのではありませんか?
正にそれが超えられた時に開かれる場合もあるでしょう。
私が一貫して感じていることは、こちらが獲得しようとすることには限界があり、そのように感じるように見えて、その裏側ではこちらの思い、力を超えてハタラキかけているものがある、ということなのです。
こちらが進化するように見えて、進化を促進するものとも言えるでしょう。
ですからこういうことを言いたいのです。
人間である以上、言葉と認識の中で生きることは宿命なので、仮想空間を1ミリも出ることは出来ません。そうすると如何に真実に近く、平安で幸せな充実感を味わう「仮想」を描けるのかどうかが問題なのですね。(この辺り、考え方が重なるのではないかと勝手に思っているのです)
五次元思考と言うのは、その意味で人間の思考能力が、現臨をより近似値的にイメージ出来ると考えているのです。それは四次元思考の世界観とはまさに次元の違う思考なのです。学者ではありませんが、認識論として間違っていないと思っています。
受け入れ難いかもしれませんが、あえて言えば、四次元思考が人間の思考とすれば、五次元思考は神の思考と言えるくらい、仮想空間を空体(現臨)の近似値まで自己空間を押し広げることが出来るのですね。
押し広げて何になると言われれば、それまでなのですが・・・、私はこの認識能力の獲得が人間の進化に大きくかかわるのではないかと直観しているのです。
のしてんてんさんの言われる五次元思考というものも仮称なのでしょう?
その気付き、解放、安らぎ...を自分の思考、能力を超えてもたらすものの仮称なのです。
それは自分自身と切り離されていないと感じることは確かなことですが、自身のことだ、と言い切れるものかどうかも、私には分からないのです。
しかし長ずるにつれて、私と神と言う二極的な形はつじつまが合わないと思うようになりました。
神はどう考えても分からない。しかし自分もまたどう考えても芯のところで分からない。神と同じくらい自分のことも分からないのです。
そして五次元思考の気付きがあって、小学校で植えつけられた神のイメージの縛りからようやく解放されたのです。
つまり神はどこを探しても捕まらない。なぜなら、神とは自分自身のことだったのだと理解したのですね。
神は決して分からないというのは、自分のことは決して分からないというのと全く同じなのです。
もちろん「私は」そう思うという意味であって、それ以上に意味がある訳ではありません。
しかし神との剥離を解消することが、自分の全てが安らぐことだと、私には思えるのです。
(私は神だ!なんて、あまりにも誤解が多すぎて、ここでしか言えないことなんですけど^ね^)