「世の中には多くの異なった永久の真理は存在しない。ただ永久のものだと想像しているだけである。彼らは、諸々の見解に関して思索考究を行って、(わが説は)は真理である、(他人の説は)虚妄であると、二つのことを説いているのである」
(スッタ.ニパータ.八八六)
私は、古今東西の精神的教えの中で、仏陀釈尊の教えほど他の追従を許さない、比類の無いものは存在しないのではないかと思っています。
こう言うと、"そうか、仏陀の教えに勝る、それ以上の教えは存在しないのかi"、と取ってしまう向きもあるかもしれません。
いや、そういうものなら、その教師自らのものか、その教えを担ぎ回っている手来などを通じて、世の中にゴマンと知らされているではありませんか?
こういう人たちには、仏陀の教えとは縁がないのか、見向きもしないのか、触れたとしても何も気付くことは無いのでしょうか?
比類の無い教えとして、私がもっともそう感じさせられることは、それが実に現実に即したものだということです。
何が現実に即したものかと言ったら、今のこの我々の現実に照らし合わせて見れば自明のことではないかi
"私の見解、主張こそは正しい、私が信じている教えに勝るものはないi、それ以外は間違っているのだi"...政治に絡むことなど、世俗の人間の(と見なされる)ものならともかくとして、宗教、スピに関わるもの(一体、前者とどこが違うのだろうか?)にして、いや、後者ほど増して自己の見解に囚われ、そこには地獄の業火が炎上しているのを見て取れるではありませんか?...そうです、宗教、スピ関連のネットなどを通して容易く"炎上"しているのを見ることが出来るのです。
一体、この現状のどこに悟りや救いを見い出すことが出来るでしょうか?...この仏陀の原始の福音に立ち返るの他無いのではあるまいか?
仏陀は空観というものを説いたと言います。そしてそれは我々の思いを滅することだと...
あるいはそうかもしれません。しかし、それは全く現実に即したものではない、と言う他ありません。
自分で自分の思いを滅することなど、現実に我々自らは、実践しようにも手のつけようのないことだからです。
しかし、この仏陀の言葉をしかと聴聞するならば、あれよあれよという間に我見に囚われ、燃え上がった思念が静まり、冷却してゆくのを覚えて来ないでしょうか?
"空"ということを非現実的に難しく考えなくとも、"これこそは正しい、これ以上の真理は無い"、という言葉は"空しい"、という響きが感じられれば、直ちにその我執から離れられるのです。
これは、実に自分自身の現実に即したものと言うことが出来るでしょう。
"私はいつも正しいので、あの愚かな炎上騒ぎとは無関係なのだi"、と思いたがるものは、自己の現実に覚めることは出来ないのです。
現実を自分のこととして、受け入れてこそ、そこから離れることが出来るのです。
そこから離れた悟りも救いもない...空しいだけでしょう。
仏陀の福音は、千古不易の真理だと感じざるを得ません。それは誰も捉えることは出来ない、比類の無いものでしょう。
(スッタ.ニパータ.八八六)
私は、古今東西の精神的教えの中で、仏陀釈尊の教えほど他の追従を許さない、比類の無いものは存在しないのではないかと思っています。
こう言うと、"そうか、仏陀の教えに勝る、それ以上の教えは存在しないのかi"、と取ってしまう向きもあるかもしれません。
いや、そういうものなら、その教師自らのものか、その教えを担ぎ回っている手来などを通じて、世の中にゴマンと知らされているではありませんか?
こういう人たちには、仏陀の教えとは縁がないのか、見向きもしないのか、触れたとしても何も気付くことは無いのでしょうか?
比類の無い教えとして、私がもっともそう感じさせられることは、それが実に現実に即したものだということです。
何が現実に即したものかと言ったら、今のこの我々の現実に照らし合わせて見れば自明のことではないかi
"私の見解、主張こそは正しい、私が信じている教えに勝るものはないi、それ以外は間違っているのだi"...政治に絡むことなど、世俗の人間の(と見なされる)ものならともかくとして、宗教、スピに関わるもの(一体、前者とどこが違うのだろうか?)にして、いや、後者ほど増して自己の見解に囚われ、そこには地獄の業火が炎上しているのを見て取れるではありませんか?...そうです、宗教、スピ関連のネットなどを通して容易く"炎上"しているのを見ることが出来るのです。
一体、この現状のどこに悟りや救いを見い出すことが出来るでしょうか?...この仏陀の原始の福音に立ち返るの他無いのではあるまいか?
仏陀は空観というものを説いたと言います。そしてそれは我々の思いを滅することだと...
あるいはそうかもしれません。しかし、それは全く現実に即したものではない、と言う他ありません。
自分で自分の思いを滅することなど、現実に我々自らは、実践しようにも手のつけようのないことだからです。
しかし、この仏陀の言葉をしかと聴聞するならば、あれよあれよという間に我見に囚われ、燃え上がった思念が静まり、冷却してゆくのを覚えて来ないでしょうか?
"空"ということを非現実的に難しく考えなくとも、"これこそは正しい、これ以上の真理は無い"、という言葉は"空しい"、という響きが感じられれば、直ちにその我執から離れられるのです。
これは、実に自分自身の現実に即したものと言うことが出来るでしょう。
"私はいつも正しいので、あの愚かな炎上騒ぎとは無関係なのだi"、と思いたがるものは、自己の現実に覚めることは出来ないのです。
現実を自分のこととして、受け入れてこそ、そこから離れることが出来るのです。
そこから離れた悟りも救いもない...空しいだけでしょう。
仏陀の福音は、千古不易の真理だと感じざるを得ません。それは誰も捉えることは出来ない、比類の無いものでしょう。
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