私は、今でこそ頻繁に仏教書を読むことがあるのですが、この“仏教書“という言葉が普通に使われているほど、わが国では仏教が浸透している割には、私の精神的な道では、ちと馴染むのが遅かったと言わねばなりません。
仏教に開眼したのには、何と言っても霊性に通じた行学一致の仏教学者、玉城康四郎先生との出会いが大きかったのです。
それまで、どうも私には“葬式仏教“などと揶揄されるように形式化し、学問の在り方も観念的になってしまっているという先入観があって(他にも居られたでしょうが)、玉城先生のような仏教者(学者、僧侶などを総称してこう呼びます)は知らなかったという訳です。
ところで、その仏教書ですが、その何冊も出されている著名な著者というと、改めて思うに、もうほとんどが日本人であることに驚きを感じてしまいます。
私は、仏教発祥国のインド人のそういう人物は、浅学ながら一人も知りません。ラーダクリシュナン博士のように、インド教の学者が部分的に仏教に触れている例しか知らないのです。
僅かに名を聞くのは、思い付く限りでは、スリランカ人(インドに含めていいのかも知れないが)のテーラワーダ仏教関係のアルボムッレ.スマラサーラ、チベット仏教関係のダライラマ14世、ナムカイ.ノルブ(欧米では、わが国と異なり、禅仏教に次いで仏教として親しまれているのは、おそらくチベット仏教でしょう?)ぐらいしか知らないのです。
後のほとんどは、各宗派にまたがりキラ星の如く、学問、説話などに著名な日本人仏教者の名が拝されているのです。これは、仏教国と呼ばれる国でも例をみない現象と言えるでしょう。
いや、ホントに古来から日本人は仏教が好きなのだなあ、と感じざるを得ません。
それじゃ、日本は仏教国なのかと言えば...そうじゃないでしょう?
神道?...そうかもしれませんが、先の通り、“神道書?“も“神道者?“も仏教に比べれば問題になりません。
しかし、この仏教の興隆の根底には、形に表れない神道というより、そのかんながら、自然のまにまににゆだねるという精神が働いているように思います。
これは特に、日本仏教でも二大勢力?と思しき、禅宗、浄土真宗にそれが色濃く浸透していると思います。
とにかく、思いを超えたものの前では、かんながら言挙げせずに座り、手を合わせればいい...自然にそうならざるを得ない、という風に...
又、仏教各派の一つに偏ることなく、共存している有り様にも、その我々の精神に古来より息づいている“道“というものが感じられます。
これをもっと広げれば、世界宗教の各派を超える...ということになるのは言うまでもないでしょう。
それにしても、わが国の精神世界は仏教無しにはあり得ないですよ!...な~んてことは、玉城先生を知るまでは考えたこともありませんでしたが...
私はしかし、その先生のパースペクティブな(これが何とも日本的なものを感じてしまう)仏教通史、日本仏教のそれなどを読んで始めてそう感じたのでした。
そういうことを通して、私も当たり前に日本人の精神の中で生きているのだなあ、ということを身に覚えたのでした...
仏教に開眼したのには、何と言っても霊性に通じた行学一致の仏教学者、玉城康四郎先生との出会いが大きかったのです。
それまで、どうも私には“葬式仏教“などと揶揄されるように形式化し、学問の在り方も観念的になってしまっているという先入観があって(他にも居られたでしょうが)、玉城先生のような仏教者(学者、僧侶などを総称してこう呼びます)は知らなかったという訳です。
ところで、その仏教書ですが、その何冊も出されている著名な著者というと、改めて思うに、もうほとんどが日本人であることに驚きを感じてしまいます。
私は、仏教発祥国のインド人のそういう人物は、浅学ながら一人も知りません。ラーダクリシュナン博士のように、インド教の学者が部分的に仏教に触れている例しか知らないのです。
僅かに名を聞くのは、思い付く限りでは、スリランカ人(インドに含めていいのかも知れないが)のテーラワーダ仏教関係のアルボムッレ.スマラサーラ、チベット仏教関係のダライラマ14世、ナムカイ.ノルブ(欧米では、わが国と異なり、禅仏教に次いで仏教として親しまれているのは、おそらくチベット仏教でしょう?)ぐらいしか知らないのです。
後のほとんどは、各宗派にまたがりキラ星の如く、学問、説話などに著名な日本人仏教者の名が拝されているのです。これは、仏教国と呼ばれる国でも例をみない現象と言えるでしょう。
いや、ホントに古来から日本人は仏教が好きなのだなあ、と感じざるを得ません。
それじゃ、日本は仏教国なのかと言えば...そうじゃないでしょう?
神道?...そうかもしれませんが、先の通り、“神道書?“も“神道者?“も仏教に比べれば問題になりません。
しかし、この仏教の興隆の根底には、形に表れない神道というより、そのかんながら、自然のまにまににゆだねるという精神が働いているように思います。
これは特に、日本仏教でも二大勢力?と思しき、禅宗、浄土真宗にそれが色濃く浸透していると思います。
とにかく、思いを超えたものの前では、かんながら言挙げせずに座り、手を合わせればいい...自然にそうならざるを得ない、という風に...
又、仏教各派の一つに偏ることなく、共存している有り様にも、その我々の精神に古来より息づいている“道“というものが感じられます。
これをもっと広げれば、世界宗教の各派を超える...ということになるのは言うまでもないでしょう。
それにしても、わが国の精神世界は仏教無しにはあり得ないですよ!...な~んてことは、玉城先生を知るまでは考えたこともありませんでしたが...
私はしかし、その先生のパースペクティブな(これが何とも日本的なものを感じてしまう)仏教通史、日本仏教のそれなどを読んで始めてそう感じたのでした。
そういうことを通して、私も当たり前に日本人の精神の中で生きているのだなあ、ということを身に覚えたのでした...
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