「浄土は私にとってまだ見ぬ世界である。まだ見ぬといったところで、見ないという形で見ている。...そこはまだ見ぬ世界であるが、しかしそれが同時に懐かしい魂の故里である。
故里なら知っているはずである。見知らぬ世界でありながら、なにかそこへ心ひかれる」
(金子大栄「親鸞の世界」/徳間書店刊)
私が昭和58年夏、初めて“人生の裏側”を目の当たりにさせられた時、それは元より生まれて初めての体験だった訳ですが、同時にずっと心の奥で求め続けていた魂の故里に帰ることが出来た!、という思い~それは通常の思いでない、もっと意識の深いところから来るのであるが~が込み上げて来たのでした。
このことは、意識の表層では捉えられてはいなくても、その深層にはそれが息づいているということを如実に物語っているのです。
表層では諸々の思いに囚われていて、自分が本当に求めているもの、最善のものが何かが分からなくなって、次善以下のことに夢中でいる訳ですが、魂の故里にあって、神、キリスト、如来...~呼び名は何であれ、それは魂の親とも言うべき命そのものでしょう~の方が絶えず、こちらに帰郷を呼びかけ続けているのを感じました。
このことを心の深部を貫くようにも示され、もう全心全霊を激しく揺さぶられざるを得なかったのでした。
浄土系仏教、取り分け親鸞上人は、こうした消息を”弥陀の本願”として受け取られたのでしょう。
こちらが念仏行で浄土へ渡るというよりも、帰さんと呼び覚ますものがある。本願に裏打ちされた念仏(広い意味での祈り、瞑想)...これが浄土系仏教や真宗といった枠に収まる訳が無い!
これをその門下の者ならともかく、四十八願の成就であるとかの仏説を信じ、又、南無阿弥陀仏の名号を称えなければならない、ということは無いはずです。
現代は、親鸞上人在世時とは時代相が全く違うのだから...
魂の故里~浄土を、命のみ親を、その本願を持たない者など誰も居ないのだから...
この本願の消息を誰よりも強調されたのが、親鸞上人であったのです。
その根底には、誰にでも息づいている普遍精神があったのは言うまでも無いでしょう。
私は、この本願的な息吹に会わされ、意識が向かわされることで、“自分の思いで悟りなどを追い求めるのは迷いである”、ことに気づかされたようなのです。
そして、いよいよその見えない裏側からのハタラキかけ~本願というものが普遍性を帯びながら増して来るのを覚えてならないのです。
故里なら知っているはずである。見知らぬ世界でありながら、なにかそこへ心ひかれる」
(金子大栄「親鸞の世界」/徳間書店刊)
私が昭和58年夏、初めて“人生の裏側”を目の当たりにさせられた時、それは元より生まれて初めての体験だった訳ですが、同時にずっと心の奥で求め続けていた魂の故里に帰ることが出来た!、という思い~それは通常の思いでない、もっと意識の深いところから来るのであるが~が込み上げて来たのでした。
このことは、意識の表層では捉えられてはいなくても、その深層にはそれが息づいているということを如実に物語っているのです。
表層では諸々の思いに囚われていて、自分が本当に求めているもの、最善のものが何かが分からなくなって、次善以下のことに夢中でいる訳ですが、魂の故里にあって、神、キリスト、如来...~呼び名は何であれ、それは魂の親とも言うべき命そのものでしょう~の方が絶えず、こちらに帰郷を呼びかけ続けているのを感じました。
このことを心の深部を貫くようにも示され、もう全心全霊を激しく揺さぶられざるを得なかったのでした。
浄土系仏教、取り分け親鸞上人は、こうした消息を”弥陀の本願”として受け取られたのでしょう。
こちらが念仏行で浄土へ渡るというよりも、帰さんと呼び覚ますものがある。本願に裏打ちされた念仏(広い意味での祈り、瞑想)...これが浄土系仏教や真宗といった枠に収まる訳が無い!
これをその門下の者ならともかく、四十八願の成就であるとかの仏説を信じ、又、南無阿弥陀仏の名号を称えなければならない、ということは無いはずです。
現代は、親鸞上人在世時とは時代相が全く違うのだから...
魂の故里~浄土を、命のみ親を、その本願を持たない者など誰も居ないのだから...
この本願の消息を誰よりも強調されたのが、親鸞上人であったのです。
その根底には、誰にでも息づいている普遍精神があったのは言うまでも無いでしょう。
私は、この本願的な息吹に会わされ、意識が向かわされることで、“自分の思いで悟りなどを追い求めるのは迷いである”、ことに気づかされたようなのです。
そして、いよいよその見えない裏側からのハタラキかけ~本願というものが普遍性を帯びながら増して来るのを覚えてならないのです。
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