人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ブッダとアートマン

2022-02-23 10:12:52 | 仏教関連
「ブッダは、絶えず変化している経験的集合体とは区別される真実の自己の存在を、否定していない...彼は、恒常不変の自己の存在を否定するというより、それについての思弁を否定したのだ」(S.ラーダークリシュナンー出典、前記事に同じ)

"ブッダは、真我、恒常不変の自己なるもの(インド教では"アートマン")を認めていたのか、否定したのか?"、を巡って今でも仏教研究者の間で見解が分かれているようです。
原始仏典によっても、あるところでは肯定的に語られ、別のところでは否定的に語られていることがその要因でしょう。
もっと、それをもつれさせているのは、後者に関連しますが、"ブッダは真実の自己なる存在を否定した"、という微妙な言い回しの受け取り方にあるでしょう。
これは、そのようなそれ自体のみから成る、"実体あるもの"としては、否定した、という風に解されることは、ブッダの縁起観に基づく無我論から導き出されるでしょう。
それについて、そんな有るのか、無いのか分からない、実体なき真我など信じられるか?と、感じている人も多いだろう、と思われます。
これは神でも、霊、霊界でもスピリチュアルなものは、すべてそういうものと言ってもいいでしょう。(宗教、スピ界にはこういう実体信仰が根強いのはどうしたものでしょうか?)
実体が無ければ信じられない、というのなら唯物科学と何ら変わりはありません。そして、人間の精神は、信じ、疑うという表層意識に基づくものがすべてではないのですi
しかし、ブッダとは要するに、よほど不定見な人間のようにも思えて来ますが...いや、これこそがブッダの真骨頂なのではあるまいか?
つまり、唯一絶対の神的存在ブラフマン、不変、真実の自己アートマン...このような定見、思いの固着、執着となるものを否定した、ということでしょう。
即ち、そこに権威がはびこり、安易な迎合が生じ、思考停止に陥ってしまう...そうなると反省、内省の道が閉ざされ、表層の思考に依らない、ブッダの智慧ともいうべきものの発露が閉ざされるから...平安に与ることが出来なくなるから...、ということではないでしょうか?
ブッダの目覚めにより、安心に導かれる...分かりきったことではありませんかi
いや、待てよi...安心に与るものは誰か?...恒常ならぬ、顕れては滅したりする自己なのでしょうか?...そこに平安など求められるでしょうか?
それは、もとより常にそう考えている自己の沙汰でないのは言うまでもありません。そして、そのことについて誰一人私に明言などしてくれないでしょう。お釈迦さんと言えども...
私自身が内省し、アキラメ(明らかにする)なければならないのです。
いや、この直接的な道に入ること自体に、心に安らぎが、見えない導きが感じられて来るのではないか?
それは、全く思われた私を超えたところから来る...その実体が何かは分からないが...
少なくとも、私はその思いを超えたあるもの、そしてそれが思われた私でない私とつながっている、あるものを否定し去る気にはなりません。
いや、そういう気が全く起こってこないのだから、どうしようもありません...。
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