私がキリスト教について色々知るようになったのは、ようやく大学4年ぐらいになってからでしたが、その入信時に行われるとされる、”洗礼”という儀式のことなど全く興味ありませんでした。
それは、入信する気も無かったということですが、私にとって洗礼とは、ズバリ”聖霊のバプテスマ”のことを差していたこと以外の何ものでもありませんでした。
これは小池辰雄、手島郁郎両先生の影響に依っていた訳ですが、それは所謂精神的覚醒体験とも結び付けられていたのです。
今と違ってそういう情報は流布されておらず、私にはそれは、宗教的回心体験として認識されており、それはもっとも最初に、そしてもっとも関心が向けられたものだったのです。
このように、本来の洗礼とは儀式にあらず、”霊の洗礼“に他なりません。又それ自体入信を意味していたものでは無いのです。
“もっと神を、イエスを信じてから受けなきゃならない?”...バカな!、私が“現場”に居合わせた経験で言えます。キリスト教のキの字も知らなくても、聖書を読んだことが無くても、それを受けることが出来るでしょう。
もっと一般的なキリスト教について知ろうという気など...思う訳無い!
それが人生の一大変容に与るものかもしれないのだから!...
ところがそれを受けることに強いあこがれを持った反面、警戒心も拭い去れないという、そういう迷いを抱いたせいか、何度となくその集会(小池先生関係の方。会員にはなりましたが、キリスト者になったという自覚はまるでありません!)に連なっても中々そういう契機は訪れなかったのです。
そしてしばらく経って、そのようなことは、集会の外で起きたのでした。”ような“ということは、そう思いはしましたが、それが聖霊のバプテスマかどうかは分からなかったのです。
神か、聖霊か?...そう、思いを超えたものの現臨は確かにアリアリと感じました。
だが、多くのキリスト者がその契機において証言している、イエス.キリストの現臨、現存と結び付けるものは特に感じられなかったからです。
とは言え、目からウロコが落ちた(使徒パウロ)感じ、生まれ変わったような感じ、そう、愛、平安...そこで異口同音に語られるものは感じたのでしたが...
しかし、何もかもがこれまでの人生経験に無かった、ぶっ飛んだものだったので、正直何をどう理解していいか分からなかったのです。
集会の中で起きたことなら、その指導者などから説明を受けて納得させられることもあったかもしれず、あるいはキリスト者として歩むことになっていたかもしれません。
しかし、それは言うまでもなく私に...他の誰でもない私に起きたことだったのです!
このことは、キリスト教における聖霊のバプテスマも含め、すべての精神的覚醒について言えることではないでしょうか?
一人一人顔も性格も生き様も違う生の有り様にあって、先のように共通に語られるものはあっても、一律一様に、類型的に語られてしまうのであれば、私はそこに、“私のすべての生の主なるもの”との出会いを認める訳にはゆかないものを感じずにおれません。
もっとも、そのことを本当に実感したのは、ずっと後のことだったのですが...
それは、入信する気も無かったということですが、私にとって洗礼とは、ズバリ”聖霊のバプテスマ”のことを差していたこと以外の何ものでもありませんでした。
これは小池辰雄、手島郁郎両先生の影響に依っていた訳ですが、それは所謂精神的覚醒体験とも結び付けられていたのです。
今と違ってそういう情報は流布されておらず、私にはそれは、宗教的回心体験として認識されており、それはもっとも最初に、そしてもっとも関心が向けられたものだったのです。
このように、本来の洗礼とは儀式にあらず、”霊の洗礼“に他なりません。又それ自体入信を意味していたものでは無いのです。
“もっと神を、イエスを信じてから受けなきゃならない?”...バカな!、私が“現場”に居合わせた経験で言えます。キリスト教のキの字も知らなくても、聖書を読んだことが無くても、それを受けることが出来るでしょう。
もっと一般的なキリスト教について知ろうという気など...思う訳無い!
それが人生の一大変容に与るものかもしれないのだから!...
ところがそれを受けることに強いあこがれを持った反面、警戒心も拭い去れないという、そういう迷いを抱いたせいか、何度となくその集会(小池先生関係の方。会員にはなりましたが、キリスト者になったという自覚はまるでありません!)に連なっても中々そういう契機は訪れなかったのです。
そしてしばらく経って、そのようなことは、集会の外で起きたのでした。”ような“ということは、そう思いはしましたが、それが聖霊のバプテスマかどうかは分からなかったのです。
神か、聖霊か?...そう、思いを超えたものの現臨は確かにアリアリと感じました。
だが、多くのキリスト者がその契機において証言している、イエス.キリストの現臨、現存と結び付けるものは特に感じられなかったからです。
とは言え、目からウロコが落ちた(使徒パウロ)感じ、生まれ変わったような感じ、そう、愛、平安...そこで異口同音に語られるものは感じたのでしたが...
しかし、何もかもがこれまでの人生経験に無かった、ぶっ飛んだものだったので、正直何をどう理解していいか分からなかったのです。
集会の中で起きたことなら、その指導者などから説明を受けて納得させられることもあったかもしれず、あるいはキリスト者として歩むことになっていたかもしれません。
しかし、それは言うまでもなく私に...他の誰でもない私に起きたことだったのです!
このことは、キリスト教における聖霊のバプテスマも含め、すべての精神的覚醒について言えることではないでしょうか?
一人一人顔も性格も生き様も違う生の有り様にあって、先のように共通に語られるものはあっても、一律一様に、類型的に語られてしまうのであれば、私はそこに、“私のすべての生の主なるもの”との出会いを認める訳にはゆかないものを感じずにおれません。
もっとも、そのことを本当に実感したのは、ずっと後のことだったのですが...
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