人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

目の前に現前すること

2024-05-18 09:29:44 | 覚醒
ユーチューブで、玉城康四郎先生の悟りというか、覚醒体験のことが取り上げられていたのですが、かなり曲解しているところがありました。
それによると、先生の目の前に突然ダンマが現れ、それが段々近づき、皮膚に浸透して来て、やがて中に入って一つになったのだと言います。
いや、先生によると、ダンマが顕わになるというのは、中から(これは、肉体からということでなくて、実存的な内奥といったものでしょう?)なのではなかったか?
第一、先生はダンマというものを、そのように対象的に見たり、思い描けるような実体としては一言も言っていなかったはずなのです。
この術者は、自身のその何か光の玉のようなものがそのように、自分の中に入って一つになったという悟り体験?を先生の体験と結びつけて、そのようなものが悟り体験の原型である、と述べているのでした。
この人は、実際に玉城先生と会ったことがあるそうなのですが、そのことは、直接先生から聞いた訳でも、著書を読んで確かめたことも無いと言うのだから、随分いいかげんなものだし、先生のダンマの顕現による”目覚めの原態”とは大部かけ離れていると言う他ありません。
私の場合はと言うと、突然目の前に霊的存在が現れ、段々近づいて来て、一つになった...だから、そういう描写も出来ないことも無いですが、それじゃまるでそういう心霊現象が伴うものみたいに誤解されてしまいますよ。
神的、霊なるものの現臨、現前とは、本質的にそういう対象的にある実体を見ているようなことではなく、主体、客体も超えて一つになっている、そうした表層に隠れていた意識が顕わになるようなことです。
そして神的超越者と実存的内奥が一つになる...
言い換えると、これが重要なことで、表層の思考が超えられ、後退させられることに他ならないのです。それは端的に対象的な認識が超えられることで示されると言えるでしょう。
考えている自分は、先のように霊的存在が現れ...などと描写することも可能ですが、それを目の当たり(これが、”現前”というもので言い表せるものでしょう?)にしている渦中においては、まずどうしたってそういう霊的”実体”を在るかのように言い表すことは不可能なのです。
私は悟ったことなど無いので、これが悟りの原型とか、大それたことなどとても言えないですし、感じ方、表現は色々あってもいいとは思うのですが...少なくとも、そこに何か現象的に見えるとか、聞こえるとか、自分の力で何かを為し得るとか、要するに思い、為す自分が超えられていない心的状態をそれに当てはめることは出来ません。
取り分け、単純に心霊現象的なことは、ヘンな現象が続出するなどするから、超えないとダメだろうと思うのです。
それにしても動画配信というものは、いいかげんなものが多いです。
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