人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全託出来る人はいない

2024-03-17 09:46:23 | 覚醒
あの反面教師は、どうしていつもいつも私がツッコミを入れたくなることを書いているのか?
そういう因縁があるからなのでしょうが、これは大体同じ頃(40年くらい前)から傾倒するようになった、五井先生絡みのことが多いのです。
五井先生は祈りによって、全託の道が開かれることを説いていました。
それでこの御仁、“全託の真意“などと、さも自分が全託を究めました、と言わんばかりに分かったようなことを書いているのですが、そんなこと軽々しく言えたものじゃ無いのです!
よく考えたら分かるではないか?...全託しようと思い、やろうとして出来る人などいない、ということが!...
全託したら、自分の信念だとか、為そうとする力が出てくるのだと言う。...そもそもそういうものに寄りかかっている人間に、全託の契機が開かれるだろうか?
全託とは、自分を超えたものに明け渡すことと言ってもいいでしょう。
それは、例えば自分のその長い信仰や修行など、自分が積み重ねて来たことを全否定されても構わない、といった決定が生まれたりすることでもあるのですよ!...無駄に長い修行などそうなっても本望ではないか?(生まれ変わって新たに頂き直すことで、どんなに幸福に与れることか!)
といっても、それはその神的なものがそのようにさせる(そういう場合もあるかもしれない)ということではありません。とにかく、自分が思っていたもの、為して来たものとは、ぶっ超えたものに出くわすことで、自ずから自分の手を離さざるを得なくなるということなのです!
思いが超えられる、開かれる...これに反して、この御仁は思い、為そうとする自分が全託のことを分かったかのように、思考マインドに取り込み、閉ざしてしまっているようなのです。
ああ、もう私は寒心に堪えないものを感じてなりません。...
エラそうなこと言ってますが、勿論私は全託のことは分かっている...なんて言える訳ありません!
先の理由で!...これは悟りということと同じでしょう。
“私は全託出来ます、悟りました“、なんて自分で言っているのは、それとはまるっきり遠い状態であるのを自らバクロしているようなものではないか?!
その先にあるものは魔境みたいなものしか見えて来ません。
最終解脱だの、完全覚醒だの、ただ”与る”ということに何でゴールのようなものなどあり得ようか?...だからそれはただそう考えられているだけなのです。
いつも言っているように、そうさせるもの無しに絶対にそうならないのです。私はその前には無化されるのみ...“私は無になりました、達しました...はあ、全託の真意が分かってます!“、なんて言っているバカはどこに居るのか?

私は五井先生との出会いが精神的な道の原点であるだけに、どうしてもああいう言説は看過することが出来ないようなのです。
あの御仁とは、約二年ほど五井先生について共に学んだ仲なのですが、ある日私が「五井先生が説いている全託の道というのは、あらゆる宗教的な道に通底しているものでしょう」と言ったら神妙な顔してメモなんかしていましたが、それも何にもならないのか?
いやもう、本当に何を学んだなのか、どうしてこうもズレてしまうのかが、てんでに分かりません。
私は、そういう悔しさをぶつける、という消えてゆく姿をさせられているのは確かなことではあります。



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