瞑想指導者、金井系一郎先生のメルマガがYouTubeで公開されていますが、少し前「人生の目的」という題で、先生の師である、インドのババジの、「人生の目的は平安を得ることである」という言葉が紹介されていました。
私は“なるほどな“、と思わず頷かざるを得ませんでした。
その理由は、ともするとそれは、真理や愛を得ることと捉えられたりするのでしょうが、平安、安らぎというものには、“オチ“があると感じられるからです。
真理というものには特に言えますが、それは常に探究、追求の思いに駆られるもので、そこに思う、為そうとする自分が落ち着くということが無いかのようです。
だから私は、“完全覚醒“だとか“究極の悟り“などというものは、エゴマインドが作り出す幻想のようにしか感じていないのです。
又、愛というものには(本当には真理にしろ、それは平安と切り離されないものなのでしょうが)、もっとそれを深めようとか、失わないようにしたいという欲求がついて回るものでしょう?(もっとも対象を超えた、本来的な愛というものも“愛にオチる“しかないものを感じますが...)
しかし、安らぎにある状態というのは、安息の境地、つまりマインド、欲求がオチることを意味しているのです。
“人生のゴール“なんてことは、簡単に言えるものじゃないですが(大体、簡単にそういうことを言っちゃうことというのは、そう思っているだけなんだ!)、一応のその結節点が打たれることと言ってもいいでしょう。
具体的に、どういうことでそうなるかというと...自分の思いを超えた、神的なものに捉えられて、思考、能力が後退してしまうことです。こういうことは勿論、自分からはそうなりません。
だから、本当には平安は自分から求めて得られるものじゃなく、神にオチなきゃならないのです!
我々の本当のゴールというものも神のみぞ知ることでしょう?
金井先生の話には、どうも神を信じることは勿論、自分以外にそういうものを置かないようなところがあるようですが、どうしても神という言葉はともかく、自分の思いを超えたもの無しには、自分自身のオチ場所を見い出せないのではないでしょうか?
人生の目的は平安を得ることには違いないでしょうが、少なくとも私には、それは神を求めることと切り離すことは出来ないのです!
私は“なるほどな“、と思わず頷かざるを得ませんでした。
その理由は、ともするとそれは、真理や愛を得ることと捉えられたりするのでしょうが、平安、安らぎというものには、“オチ“があると感じられるからです。
真理というものには特に言えますが、それは常に探究、追求の思いに駆られるもので、そこに思う、為そうとする自分が落ち着くということが無いかのようです。
だから私は、“完全覚醒“だとか“究極の悟り“などというものは、エゴマインドが作り出す幻想のようにしか感じていないのです。
又、愛というものには(本当には真理にしろ、それは平安と切り離されないものなのでしょうが)、もっとそれを深めようとか、失わないようにしたいという欲求がついて回るものでしょう?(もっとも対象を超えた、本来的な愛というものも“愛にオチる“しかないものを感じますが...)
しかし、安らぎにある状態というのは、安息の境地、つまりマインド、欲求がオチることを意味しているのです。
“人生のゴール“なんてことは、簡単に言えるものじゃないですが(大体、簡単にそういうことを言っちゃうことというのは、そう思っているだけなんだ!)、一応のその結節点が打たれることと言ってもいいでしょう。
具体的に、どういうことでそうなるかというと...自分の思いを超えた、神的なものに捉えられて、思考、能力が後退してしまうことです。こういうことは勿論、自分からはそうなりません。
だから、本当には平安は自分から求めて得られるものじゃなく、神にオチなきゃならないのです!
我々の本当のゴールというものも神のみぞ知ることでしょう?
金井先生の話には、どうも神を信じることは勿論、自分以外にそういうものを置かないようなところがあるようですが、どうしても神という言葉はともかく、自分の思いを超えたもの無しには、自分自身のオチ場所を見い出せないのではないでしょうか?
人生の目的は平安を得ることには違いないでしょうが、少なくとも私には、それは神を求めることと切り離すことは出来ないのです!
感じるだけで、不安(つまりはそういう思い)から離れることが出来ます。
いつも感じられるといいですね。
そして神とは求めるものではなく、あれこれ論じるものではなく、ただ感じるものなんだと思います。表現できなくてただただ感じる安心感。
私もいつもいつもそう感じられればいいんですが、すぐ不安に飲み込まれる。それは根拠のないただの気の迷いみたいなものなんだけど、そこから抜け出せば安心が得られる。抜け出すための瞑想をします。