「言葉の最も厳密な意味で、無師独悟ということはあり得ない」
「正師の発見は、あなたの全身全霊的直感による」
(ダンテス.ダイジ「アメジスト.タブレット.プロローグ」/森北出版刊)
何度も言うように、思われたままの、常にあれやこれやと思い巡らしている人間だけからは、悟りや目覚めに与る道は開かれないのです。
正に、今言ったことがその大きな理由と言えるでしょう。
そのステージにおいては、考えている個人としての自分が居るか、思いを、個を超えたもの(別なる自分?)が顕現しているか、どっちかしか無いのです。
師と呼ばれる存在については、様々な意味合いで語られるものですが、ここではあなたをそのステージに導くもののことを指しているのは言うまでもありません。それを正師と言ってもいいでしょう。
この意味で、例えばある教団の教祖であるとか、信者、宗団意識というか、集団的思念に常に働き、又働きかけられるような存在は、それに相応しいとは言えません。
ただし、自己とその存在との関わりが、直接的な、パーソナル(人格的)なものとなるのであれば別様のものとなるでしょう。
パーソナルな関係とは、顔と顔を真向きに向き合うような、"師が自分か、自分が師か"、区別もつかぬくらい、純一になっているような関わりのことです。(現実には教祖という存在は、常に自分とかけ離れた"壇上の人"なのであるが...)
ということは、悟りや目覚めの契機というのは、常にこのような実存的交わりという状況で生まれるということに他ならないのです。(ここに本当の意味での"師資相伝"というものが行われるのではないか?)
集団的思念に取り巻かれた中では、似て非なる集団的熱狂、あるいは洗脳といったものがもたらされるだけであり、自己がその思念から自由で無ければ、"唯一無二"の正師と合い見えるということもないでしょう。
では、正師とは誰のことでしょう。"あなたを必ず悟らせてあげます"という人ですか? あなたが目指しているという、"最終解脱"にまで導いてくれる人でしょうか?
夢みたいなことにうつつを抜かしてる場合じゃないですよi
その存在に合い見えた瞬間分かるでしょう。そういう迷いの念は瞬く間に吹き飛んでしまうことで...
私には、大調和協会の命位様があるいはそういう存在だったかもしれません。その関わりはパーソナルなものだったと思います。
でも、その交流の中で、思われた自分が木っ端微塵になったことはありませんでした。
しかし、そんな私も全身全霊が揺さぶられて、この自我の塊が脆くも崩れ去ったことがありました。
ついに正師と合い見えたのですi...しかし、その顔を拝することは出来なかった...。その存在は、いや存在とも言えないかもしれない...名付けられないもの故に現臨と言う...
正師は、生身の人間とは限らないのです。これを聞いて、"何で人格との出会い無くして"人格的な関わりなど持てようか?"、と訝る向きもあるでしょう。私はむしろ、かかる"見えざる導師"無くして、生身の導師との人格的交わりも持ち得ないと感じています。(人格的という表現が躓きとなる?...実存的とでも言ったらいいのか、それだと抽象的な感じもする...要するに言葉が見つからないのです)
今日では特定の宗教、スピなどの教えを信奉していなくても覚醒に与るという、無師独悟とも思える例も多く見られますが、その契機には必ずと言っていいほど、かかる"超越的出会い"のことが示されているはずです。
これが蔑ろにされる時、一介の思われた自分がすべての人生の主体者として君臨するという、救い難い事態を招くことになるでしょう。
人間は決して神になることは出来ない...だから人間が人間である限り、見えざる導師~思いを超えたものと共にあることを要するのではないでしょうか? 神になることは出来ないが、神に"ある"ことは出来るのです。
もし、神的なものとの全き合一があるとすれば、それは人間であることが終わることを意味することになるでしょう...。
「正師の発見は、あなたの全身全霊的直感による」
(ダンテス.ダイジ「アメジスト.タブレット.プロローグ」/森北出版刊)
何度も言うように、思われたままの、常にあれやこれやと思い巡らしている人間だけからは、悟りや目覚めに与る道は開かれないのです。
正に、今言ったことがその大きな理由と言えるでしょう。
そのステージにおいては、考えている個人としての自分が居るか、思いを、個を超えたもの(別なる自分?)が顕現しているか、どっちかしか無いのです。
師と呼ばれる存在については、様々な意味合いで語られるものですが、ここではあなたをそのステージに導くもののことを指しているのは言うまでもありません。それを正師と言ってもいいでしょう。
この意味で、例えばある教団の教祖であるとか、信者、宗団意識というか、集団的思念に常に働き、又働きかけられるような存在は、それに相応しいとは言えません。
ただし、自己とその存在との関わりが、直接的な、パーソナル(人格的)なものとなるのであれば別様のものとなるでしょう。
パーソナルな関係とは、顔と顔を真向きに向き合うような、"師が自分か、自分が師か"、区別もつかぬくらい、純一になっているような関わりのことです。(現実には教祖という存在は、常に自分とかけ離れた"壇上の人"なのであるが...)
ということは、悟りや目覚めの契機というのは、常にこのような実存的交わりという状況で生まれるということに他ならないのです。(ここに本当の意味での"師資相伝"というものが行われるのではないか?)
集団的思念に取り巻かれた中では、似て非なる集団的熱狂、あるいは洗脳といったものがもたらされるだけであり、自己がその思念から自由で無ければ、"唯一無二"の正師と合い見えるということもないでしょう。
では、正師とは誰のことでしょう。"あなたを必ず悟らせてあげます"という人ですか? あなたが目指しているという、"最終解脱"にまで導いてくれる人でしょうか?
夢みたいなことにうつつを抜かしてる場合じゃないですよi
その存在に合い見えた瞬間分かるでしょう。そういう迷いの念は瞬く間に吹き飛んでしまうことで...
私には、大調和協会の命位様があるいはそういう存在だったかもしれません。その関わりはパーソナルなものだったと思います。
でも、その交流の中で、思われた自分が木っ端微塵になったことはありませんでした。
しかし、そんな私も全身全霊が揺さぶられて、この自我の塊が脆くも崩れ去ったことがありました。
ついに正師と合い見えたのですi...しかし、その顔を拝することは出来なかった...。その存在は、いや存在とも言えないかもしれない...名付けられないもの故に現臨と言う...
正師は、生身の人間とは限らないのです。これを聞いて、"何で人格との出会い無くして"人格的な関わりなど持てようか?"、と訝る向きもあるでしょう。私はむしろ、かかる"見えざる導師"無くして、生身の導師との人格的交わりも持ち得ないと感じています。(人格的という表現が躓きとなる?...実存的とでも言ったらいいのか、それだと抽象的な感じもする...要するに言葉が見つからないのです)
今日では特定の宗教、スピなどの教えを信奉していなくても覚醒に与るという、無師独悟とも思える例も多く見られますが、その契機には必ずと言っていいほど、かかる"超越的出会い"のことが示されているはずです。
これが蔑ろにされる時、一介の思われた自分がすべての人生の主体者として君臨するという、救い難い事態を招くことになるでしょう。
人間は決して神になることは出来ない...だから人間が人間である限り、見えざる導師~思いを超えたものと共にあることを要するのではないでしょうか? 神になることは出来ないが、神に"ある"ことは出来るのです。
もし、神的なものとの全き合一があるとすれば、それは人間であることが終わることを意味することになるでしょう...。
なーんて言っちゃっちゃ、その人人間じゃないじゃないの?錯覚も甚だしいんですよ」とアタシに言ったのはジャカルタのMMさんでしたねえ
今じゃMMさんも低俗で低級な悪人に過ぎぬと酷評する人も増えましたが、自分は彼は賢者だったと密かに
思ってるんですよ
或いは寄付しろ、寄付しろと皆に勧めた事が後で強要されたかの様に思われ苦情が出た
然し自分は彼の家に何日か出入りして、彼は男気の有る器量の有る人間だと思いましたよ
然し今や彼の事を語る人すら居なくなり、犬畜生呼ばわりされる時も有ります