いつも言うように、"意識を神に向ける"というのは、ホントは言葉で説明することが困難なことなのです。
言葉通りに取ってしまえば、"向けよう、向けよう"と、自分の意志的な行為みたいに思ってしまうでしょ?
これは、普通に人為的なことを言っているのですが、"神に向ける"、というのはほとんど自然に向いちゃうということ、無為的なことを言っているんです。
といって、無為というのは、全く何もしないという訳でもなく...しかし、何かをする訳でもないしなあ...要するにこれが意識的な有り様ということなのです。と、こんな具合で説明すると訳が分からなくなるのですよ。
これは、人間の世界では行動するか、考えるかしか知られておらず、心の底の意識の次元のことは、ほとんど知られていないから無理もないことなのでしょう。
しかし、誰でもこの消息のことは自然にやらされているはずですよ。
子供にチョコレートとかお菓子の臭いを嗅がしたら自然とそっちに意識が向いちゃうでしょ? これには欲求とか色んな要素もあるんでしょうが、元にあるのは意識に根付いたものがあるからでしょう。子供はね、オイシイ味をシメているんですよ。
私も実は...(ひっ、ひひひ)そうなんですよ。何も無けりゃ向いたりしません。パブロフの条件反射みたいなものです。(犬か、オレは?)
神的なものがどういうものか味を知っているのです。そこには愛、平安、リアリティという他の何ものにも代えられないものがあるi
だから理屈とか考えている次元を超えてしまうんです。意識を集中しようとしなくても自ずと集まってくるのです。
"思いを超えないと悟りや救いには与れない"、ということで、古来よりそのための方法が試みられてきました。
呼吸法とか、意識を体のどっかの部位や、何かを型どったシンボルに集中させるとか...人それぞれなので、私は別にそういうものを否定したりはしませんが、私には根本的に合わないのでやりません。ハッキリ言って、やるのが困難、苦痛なのです。
だって、オイシイ味が一つもしてこないぞi
苦しいことを"うん、うん"唸りながらやるよりも、"パッ"と、思いを超えて、向いちゃったらどうするんですか?
もし、苦しい修行を続けることにマンネリとか、億劫に感じている人が居たらこのことをよーく考えてみたらいいと思います。
人は、幸福に感じられる時に思いを超えることが出来るのです。誰もが知っているはずですよ。
パッとなるのはその端緒みたいなものなのですが、それが深まると一切の修行とか、人為的にやることを手放さざるを得なくなってしまいます。
これが私が"神に捉えられる"という事態のことなのですが、これはまさしく断念...思いが断たれることを意味しているのです。
といって、普通は一時的なもので、その後もずっと何も考えられない状態が続くという、世捨て人みたいになる訳ではありません。
こういうことは、すべて意識が最愛なるもの(即ち幸福に感じられるもの)に向けられることから始まるのです。
私の思いや力がそうさせるのではなく、そのものの方が導くのです。
何故人はこんな簡単で、自然なことにではなく、難しいことに赴いてしまうのでしょう。何か難しいことをやらなければそれに与れないかのように...
正に簡単、自然過ぎて気が付かないのでしょう。そんなことでそんなことになる訳無いと...(そういう人はそうなったことが無いのですi)
どうしたら神的なものの味をシメられるのか? 簡単でしょ? ものは試しに最愛なるものに手を合わせてみれば...
言葉通りに取ってしまえば、"向けよう、向けよう"と、自分の意志的な行為みたいに思ってしまうでしょ?
これは、普通に人為的なことを言っているのですが、"神に向ける"、というのはほとんど自然に向いちゃうということ、無為的なことを言っているんです。
といって、無為というのは、全く何もしないという訳でもなく...しかし、何かをする訳でもないしなあ...要するにこれが意識的な有り様ということなのです。と、こんな具合で説明すると訳が分からなくなるのですよ。
これは、人間の世界では行動するか、考えるかしか知られておらず、心の底の意識の次元のことは、ほとんど知られていないから無理もないことなのでしょう。
しかし、誰でもこの消息のことは自然にやらされているはずですよ。
子供にチョコレートとかお菓子の臭いを嗅がしたら自然とそっちに意識が向いちゃうでしょ? これには欲求とか色んな要素もあるんでしょうが、元にあるのは意識に根付いたものがあるからでしょう。子供はね、オイシイ味をシメているんですよ。
私も実は...(ひっ、ひひひ)そうなんですよ。何も無けりゃ向いたりしません。パブロフの条件反射みたいなものです。(犬か、オレは?)
神的なものがどういうものか味を知っているのです。そこには愛、平安、リアリティという他の何ものにも代えられないものがあるi
だから理屈とか考えている次元を超えてしまうんです。意識を集中しようとしなくても自ずと集まってくるのです。
"思いを超えないと悟りや救いには与れない"、ということで、古来よりそのための方法が試みられてきました。
呼吸法とか、意識を体のどっかの部位や、何かを型どったシンボルに集中させるとか...人それぞれなので、私は別にそういうものを否定したりはしませんが、私には根本的に合わないのでやりません。ハッキリ言って、やるのが困難、苦痛なのです。
だって、オイシイ味が一つもしてこないぞi
苦しいことを"うん、うん"唸りながらやるよりも、"パッ"と、思いを超えて、向いちゃったらどうするんですか?
もし、苦しい修行を続けることにマンネリとか、億劫に感じている人が居たらこのことをよーく考えてみたらいいと思います。
人は、幸福に感じられる時に思いを超えることが出来るのです。誰もが知っているはずですよ。
パッとなるのはその端緒みたいなものなのですが、それが深まると一切の修行とか、人為的にやることを手放さざるを得なくなってしまいます。
これが私が"神に捉えられる"という事態のことなのですが、これはまさしく断念...思いが断たれることを意味しているのです。
といって、普通は一時的なもので、その後もずっと何も考えられない状態が続くという、世捨て人みたいになる訳ではありません。
こういうことは、すべて意識が最愛なるもの(即ち幸福に感じられるもの)に向けられることから始まるのです。
私の思いや力がそうさせるのではなく、そのものの方が導くのです。
何故人はこんな簡単で、自然なことにではなく、難しいことに赴いてしまうのでしょう。何か難しいことをやらなければそれに与れないかのように...
正に簡単、自然過ぎて気が付かないのでしょう。そんなことでそんなことになる訳無いと...(そういう人はそうなったことが無いのですi)
どうしたら神的なものの味をシメられるのか? 簡単でしょ? ものは試しに最愛なるものに手を合わせてみれば...
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