人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

さくらの花は散るけれど...

2018-02-25 11:06:35 | 雑感
この冬は、当たり前のことながら寒いです。
最低気温が零下を下回る日が何日も続いた..."冬は寒いもんだ"ということを改めて感じた次第です。
そのせいなのか、ここのところ悲しい知らせが相次いでいます。
好きだった名脇役の大杉漣さんの急逝。
そして...ほとんどの人には馴染みが無いであろう、エンライトさんの代理人、Sさんも亡くなられたようです。
エンライトさんの遺稿をアップし続けたい、という強い意志を持っておられたようでしたが...残念でなりません。
その意志はエンライトさんの実妹の方が引き継がれたようです。

私が平成26年の秋、このブログを立ち上げた当初、その夏人気悟り系ブロガーAさんの周辺で、ちょっとしたバトル?が繰り広げられていたのが目に留まりました。
それは、Aさんが確か"苦しんで死んだ人もあっちの世界では、根本的には平安に包まれているから大丈夫ですよ..."と、どなたかの問いにノンデュアリティの観点から、決めつけたような言辞を表したことに対して、"短絡的、無責任だ"というニュアンスで、別のブロガーが反論していたことに端を発したものなのでした。
もう、そのAさんのブログのコメント欄は、この問題を巡り賛否入り乱れて(大体はAさん寄りでしたが)の言葉で溢れかえるという、全くノンデュアリティからは程遠い様相を呈していたのでした。
私の観方は?...この時はAさん寄りでした。だって、"迷いとか苦しみというのは、二元的なもので、根源的な観点では解消される...本来無い"ものなのでしょう?
...というようなことを当時は懸命に思おうとしていたのです。つまり"ノンデュアリティこそは究極の真理に導かれるものに違いない..."という思いがどっかにあったのです。
しかし、この問題に限らず、例えば"個というものは無い、自由意志も無い、すべては思いの中のストーリー"といった、お馴染みの命題でも腑に落ちていた訳ではけっして無かったのです。
そこに、精神の道には、"これしかない"ことで収まるものでなく、多面的な理解というものも必要であること、そして何よりも自分が腑に落ちない事にいくら取り組んでも無意味であることに気付かせてくれたのが、この歯にきせぬ物言いのブロガーさんだったと思います。
この人が"高速かんながら"のSさんなのでした。
その翌年ブログ"裏宇宙からの遺言"で、エンライトさんを知ったのですが、この二人に師弟関係があったことなど当時は全く知りませんでした。
そしてSさんのああした物言いというのは、エンライトさんから勧められて、"スピ検証をしていたから"、ということも自身のブログで明かしていましたが、あまり本意ではなかったようです。
ともかく、このブログというのは、こうしたいくつかの試行錯誤のうちに始まったものなのです。思い返してみると何故私がこうして書いている?、書かされている?のかは何となく分かります。
"腑に落ちどころ"を探していたのか?...それはとっくの昔に知らされていたものではなかったか?
私はそれから間もなく、非二元原理主義に幻滅を感じ、その年の初冬、およそ5年ぶりに現臨に捉えられてしまったのでした。
ああいう"検証"の道というものは、敵も作りやすいし、背負わなければならないものも出てくるでしょう。エンライトさんもSさんもその事は覚悟の上だったと思います。
何が正しくて、間違っているかは簡単に決められるものではないけれど、そうしたことを通して精神の道のある断面は切り開かれ、啓発がもたらされることは感謝しなければなりません。
Sさんの最近のブログでは、すっかり角も取れ、これから本来の彼女らしさが段々表されてくるのかな、と楽しみにしていたのに...重ね重ね残念なことです。

"人生には苦しみや悲しみ、迷いというものはあるものだけど、それとは別の生というものもあるもの...さくらの花は散っちゃうものだけど、ほら...もう、芽が出てきたよ..."

Sさんの上に平安がありますように...
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