神秘体験とか覚醒、一瞥とか言われているものは、かつては宗教絡みでその道を勤しんでいる者が与るものと思われていたのですが、昨今では何ら特別なことをしていない人が、思いがけずそういうことになってしまうこともしばしば聞いているとおりです。
私がこのブログを始めた当初、さも"この人生の裏側に踏み入れるってーのは、そりゃ素晴らしいんですよ~"とそれを煽るようなことを書いてしまったりして...今でも反省しております。
その後もネットなどを通じて意識障害などを起こして、普通に生活することも困難になるという事例を知るにつれ、そこには手放しで受け入れられないものも感じてきます。
そこには何か重大なものが蔑ろにされているのではないだろうか?
これはその後何度も触れてきていることなのですけど、少なくとも自分にとってはどういう意味合いを持っているのか、改めて書いてみたいと思います。
この問題について、先ず私は自分自身の原点に立ち返ってみようと思い至りました。
昭和53年の暮れ、それまでずっと私は宗教的なことに関心を持ち続けていたのですが、"教えを信じていたらいい"式のただの観念事だけでは内的な満足を満たすことが出来なくなっていました。
そんな折、思いがけない形で"そう信じている"どころでない事態に見舞われてしまいました。
ウッカリ近づいたカルト宗教が執拗に私をトリコにしようと接触してくるのに恐怖を覚え、"神、キリスト、守護霊、五井先生(当時はそれまで崇拝しているに近かった五井先生から意識的に離れようとしていた)何でもいい、助けて下さいi"と、脇目も振らず必死に祈りこんだのです。
すると...突然、意識が飛びそうになり、もうその場で道路にへたれ込んでしまったのです。
カルト宗教への恐怖は消えましたが、別の恐怖に襲われました。"意識が無くなる、自分が無くなる..."
幸い、その場は数分で落ち着いたのですが、その後1ヶ月くらい、いつ何時それがやって来るのか分からない、その意識、自分が無くなる恐怖と戦うハメになってしまったのです。
これは私が五井先生と離れたバツなのか(従って守護の神霊のご加護も切れた?)とも思いましたが、ともかくも私はただの観念事でない、実体験の世界に足を踏み入れたのです。しかし、それは恐怖と混乱と共にあったという次第です。(もっとも、それ以前ありやかな実体験というほどでなくとも、微妙なある導きを受けているような感じを受けてはいましたが)
で、この自分が無くなることですが、私は勿論完全に消えてしまった訳ではありません。そうなったらここでこうして居られる訳が無いのです。(意識が、自分が消えてしまえば、全体も世界も宇宙も消えてしまうはずです。"私は自分が消える体験をした"という人も多分そうでしょう。何かしら今居る人は誰も完全には消えないのですi)
いつそうなるかは分からないけれど、ある取っ掛かりというのは何となく分かりました。
それはその恐怖の事態に"意識が向く...向ける...向いちゃう"という、自分の意志とは言えないこの微妙な意識の有り様にどうも起因しているらしいのです。その起こりがそういうものだけに、それを自分の意志で防ぐという手だてもおぼつかないのです。
もはや、どうしようもありません。しかし...このブログをずっと読まれている方なら気が付かれるでしょう。
そうですi その恐怖が臨んでくるものが、別のものに代わったのですi
落ち着いて、肝を据えて神的なものに祈ることによって...これは形ある自意識的な祈りというものでなく、実に意識が神的なものに"向く、向ける、向いちゃう"ということで導かれたのです。神か、キリストか、守護霊かは分からないけれど、この神的なハタラキこそは私の救世主です。
これで直接意識の覚醒に導かれた訳では無いですが、ともかくその生きたものを身に覚え、人生の裏側に踏み入れる端緒だったのは間違いありません。
あの恐怖体験は、ごく短い間の過渡的なものだったという印象なのですが、それも見えない導きのうちだったかもしれません。
その渦中にあった時から、"大丈夫だ、直に収まるから...私が居るから..."という声なき声を聞いていたからです。
この神的なものと共にあることが私の原点だったのです。
ま、ずっと知らずにそのように歩まされていたということになりますが...
私がこのブログを始めた当初、さも"この人生の裏側に踏み入れるってーのは、そりゃ素晴らしいんですよ~"とそれを煽るようなことを書いてしまったりして...今でも反省しております。
その後もネットなどを通じて意識障害などを起こして、普通に生活することも困難になるという事例を知るにつれ、そこには手放しで受け入れられないものも感じてきます。
そこには何か重大なものが蔑ろにされているのではないだろうか?
これはその後何度も触れてきていることなのですけど、少なくとも自分にとってはどういう意味合いを持っているのか、改めて書いてみたいと思います。
この問題について、先ず私は自分自身の原点に立ち返ってみようと思い至りました。
昭和53年の暮れ、それまでずっと私は宗教的なことに関心を持ち続けていたのですが、"教えを信じていたらいい"式のただの観念事だけでは内的な満足を満たすことが出来なくなっていました。
そんな折、思いがけない形で"そう信じている"どころでない事態に見舞われてしまいました。
ウッカリ近づいたカルト宗教が執拗に私をトリコにしようと接触してくるのに恐怖を覚え、"神、キリスト、守護霊、五井先生(当時はそれまで崇拝しているに近かった五井先生から意識的に離れようとしていた)何でもいい、助けて下さいi"と、脇目も振らず必死に祈りこんだのです。
すると...突然、意識が飛びそうになり、もうその場で道路にへたれ込んでしまったのです。
カルト宗教への恐怖は消えましたが、別の恐怖に襲われました。"意識が無くなる、自分が無くなる..."
幸い、その場は数分で落ち着いたのですが、その後1ヶ月くらい、いつ何時それがやって来るのか分からない、その意識、自分が無くなる恐怖と戦うハメになってしまったのです。
これは私が五井先生と離れたバツなのか(従って守護の神霊のご加護も切れた?)とも思いましたが、ともかくも私はただの観念事でない、実体験の世界に足を踏み入れたのです。しかし、それは恐怖と混乱と共にあったという次第です。(もっとも、それ以前ありやかな実体験というほどでなくとも、微妙なある導きを受けているような感じを受けてはいましたが)
で、この自分が無くなることですが、私は勿論完全に消えてしまった訳ではありません。そうなったらここでこうして居られる訳が無いのです。(意識が、自分が消えてしまえば、全体も世界も宇宙も消えてしまうはずです。"私は自分が消える体験をした"という人も多分そうでしょう。何かしら今居る人は誰も完全には消えないのですi)
いつそうなるかは分からないけれど、ある取っ掛かりというのは何となく分かりました。
それはその恐怖の事態に"意識が向く...向ける...向いちゃう"という、自分の意志とは言えないこの微妙な意識の有り様にどうも起因しているらしいのです。その起こりがそういうものだけに、それを自分の意志で防ぐという手だてもおぼつかないのです。
もはや、どうしようもありません。しかし...このブログをずっと読まれている方なら気が付かれるでしょう。
そうですi その恐怖が臨んでくるものが、別のものに代わったのですi
落ち着いて、肝を据えて神的なものに祈ることによって...これは形ある自意識的な祈りというものでなく、実に意識が神的なものに"向く、向ける、向いちゃう"ということで導かれたのです。神か、キリストか、守護霊かは分からないけれど、この神的なハタラキこそは私の救世主です。
これで直接意識の覚醒に導かれた訳では無いですが、ともかくその生きたものを身に覚え、人生の裏側に踏み入れる端緒だったのは間違いありません。
あの恐怖体験は、ごく短い間の過渡的なものだったという印象なのですが、それも見えない導きのうちだったかもしれません。
その渦中にあった時から、"大丈夫だ、直に収まるから...私が居るから..."という声なき声を聞いていたからです。
この神的なものと共にあることが私の原点だったのです。
ま、ずっと知らずにそのように歩まされていたということになりますが...
否、私はまだ生きている。いなくなるなら死んでからでいいです。w
死後の自分の有様を体験した人は、生きてることの意味を曖昧にしてしまいます。意味はない、でもそれは生涯が終わってのことなのでしょう。ね。
体験てのは、"体"あってのものですからね。
"どなた様も陰身大切に..."と言いたいですね。
幽体、霊体ともどもってことかしら...
ブログ主さんは根が明るくて好人物なので発狂してしまう様な事は無かろうとは思ってますよ
まあワタクシみたいなヤサグレのゴミ人間が精神世界を語ると無茶苦茶で怒られるかも知れませんが、敢えて言うなら、経験的には「理性=体」だと感じてるんですよ
知能の属性ではなく体に理性が有るから、極限まで追い込まれても殺したり自殺したりが出来ない人が居る
小指の先だけでも目覚めていれば、と言う訳です
つまり「個」を越えるとか「個」は無いとかじゃなく、「個」を得なければならない、最悪「肉体」を得なければならない アスレチックな意味じゃなく
如何に魂が個人性の無いものであったとしても、個が消えて天地と融合しましたでは人間ではなくなる
瞑想の達人とワタクシが感じているクルシュナムルティも「個は残る」と書いておりました
逆に今は純粋な意味での「個体意識」が人間から奪い去られて久しい時代だと思う
偉大で崇高なものが天国に入るとは書いてない
幼子の様なものが天国に入ると記されている
これは非常に奥深い多重的な意味合いが含まれてる
んじゃないでしょうかね
まあ何れにせよ危機的状況から脱して災い転じて福と
なされた様で、御人徳の賜物かと思います
総じて今の風潮は頭でっかちです。個、自分のことは、考えてたって分かりません。それ以前に身体性としてちゃんとあるのですからね。いつも意識について書き勝ちになりますが、それら共々が自己であることを忘れてはならないですね。
私はつい数週間前から88歳の御袋が突如、強い認知症状を起こしてパニック状態になりました
私は御存知の通りポンコツ人生で結婚もせず、還暦の歳をぶら下げて老齢の母親と二人暮らしで、極度のマザコン爺ィなんです
残酷な事に今年の春先、ラティハンをした後、心が引き裂かれる程の寂しさと哀しさを感じ、それが母親の近未来を示すものだと直感し、怯えたり必死で否定しようともがいて参りました
長年礼拝を続けて来て残念ながらこの有様です
ブログ主の仰る「生かされていると実感する事の幸福感」と言う状態には未だ達してない気が致します
僅かでも会得出来る様、真摯に生きたいと感じています
ずっとコツコツと修行をしている訳でもなく、自分の感情に振り回されるのもしょっちゅうで、もう"段々向上して高い境地に達しよう"というのは、諦めているくらいです。ただそんな自分とは関係無しに、奥の方で息づいているものはいつも感じています。それがそんな実感をもたらしているようです。
人生にはアカンことだらけですが、アク?ようなこともあるのも、自分でないところからのようです。
私も長年オフクロが寝た切りだったこともあり、貴殿の苦難も分かりそうですが、こればかりは察することしかできません。どうか光が差し込むことがありますようにと願っています。