人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私らしい雑感

2020-06-14 09:55:30 | 雑感
改めて言うまでもないですが、宗教っていうのは、どうも我が国では嫌われているようですね。
人が言ったり、書いているものに接するとよく、"こういう言い方は宗教臭くなるようで嫌だi"、という言葉に出くわします。
その気持ちよーく分かります。
神(的なもの)は信じている人でも、宗教は嫌いだ、という人もいるだろう(私i)けど、どっちも信じてない人には同類に見られているのでしょう。
何か、宗教、神ってのは、胡散臭いものだけでなく、独り善がりのもの、押し付けがましいものの代名詞のように思われているらしいです。
つまり、宗教、神を信じてる人というのは、"ガ"が強い人たちなんだってことでしょう。
そりゃ、そうだろう...自分だけがハマって、どうにかなってるだけじゃ収まらず、他人をもその、特定のなんちゃらの教えやらメソッドとかに引きずり込み、ハメようとしているのですから...
"いいや、私はガが強いだなんて、とんでもござーせん。いつもガを捨てなきゃあならない、と信じ、実行し、人にも勧めてんですから..."、って向きもおられるかもしれませんが...いや、だからそうなんだi、ってことじゃないですか?
こういう人たちはとにかく押しの強さもあってか、コモンセンスに欠けるというか、公共性から浮いているのです。
いいですか、コモンセンスというのはですね、普遍性であって、神的なものにあってこそ身に付くものなんですよi...(あ...浮いてっかな?)
もう、アタシャ、ホンに、ホントーに他に向けて、何かの教えみたいなのを垂れようとすることが、イヤになってしまいましたi
そうやって、自分を目立つように、前に出し、自分で出来もしないこと言って、出過ぎたことをしていることに気がつかねばなりませんi(浮き、ウキしてきたi)
礼節や慎ましさを重んじる日本人なら分かることでしょう?
こういうことは道徳倫理の問題じゃないのですi
"私がi"を引っ込めることで、ますます私自身になり、愛、平安、リアリティと共に、生の実感に与れるようになるのです。
それは、思われた私側からそうなろうとすることでなしに、あの"御方"が顕わになるところから来るのです。
あの御方のみ手により、"私が"を引っ込められ、出られるのはあの御方!
このことについて、私がどうなる、こうなるってことなどどうでもいいのです。
"私が"ということでなしに、意識は私を超えたものに広がってくる...それが普遍性というものでしょう。それを神と結びつける必要も勿論ありません。
それは世間一般ということとも違うので、それに合わせるとか、おもねるということもありません。
自ずと広がってゆく感じがあるので、"広めよう"とする必要(これが宗教が嫌われる大きな理由の一つ)がないのです。
ただ、そのなんか、自分を超えたものを感じているだけでいい...
まあ、私がどういう人間に思われたって構やしないことなんですけど...本当に今、私らしく感じていることを書いているまでです。幸福に感じてなきゃ書けないことですが...
人が何を思い、何を信じ、どう生きようと...本当にそれで幸せに感じられたらいいんじゃないですか...
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