人がこの世界で生きているのは、当たり前のことながら考え、感じている自分が居るからです。
誰かが"自分というものは無いんです"と言おうが、そう考えている自分を通して...中には"そうなんだi"と得心してしまう人も居るかも知れませんが、大概は?のまま、自分の考えの中に取り込まれるだけでしょう。
こういうことはいくら考えたって分かりゃしないのです。言っている人間が分かって言ってるか、どうかも。ただミもフタもないことを言っていることだけは分かります。
このことにしろ、"何で自分は生きているのか?"、"人生の意味とは?"、"スピを探求する意味は?"、"どこにその帰着点があるのか?"
そうです。いくら思われた自分が考え、どう結論を出そうとしても(思われた自分がそうしたいのです)、何処にもたどり着けないことなのです。
そのことに気付くこと自体がある意味の悟りと言ってもいいでしょう。
古来より様々な宗教で"空"とか"無"とか"己を空しくせよ"、"神にゆだねよ"と説かれ続けてきたのか? 私はやっと分からされた気がします。
自分を表に出したままでは、あの御方が表に出られないからです。絶えずあーでもない、こーでもないと思い巡らせ、ついには思いのガンジガラメに絡まれてしまうことは、あの御方の出口を塞いでしまうことなのです。
自我というこの世の王が、生きる上で真っ先に知らねばならないものを押し込め、それに成り代わって支配する世界。この世界が如何に"がらんどう"のように、いつ脆くも崩れ去ってしまうように映るのも自明なことではないかi
しかし、その空に、無になろうとする試みも又、為そうとする自己によって、容易に自我に取り込まれる要因になってきたのですが...
これはどこまでもあの御方の自己顕現の成せることなのでしょう。
私はあの御方とここで言っていますが、それが自分の外に、別に居る神、あるいは守護霊のような存在という風に囚われると、主体性の無い依存的心情を強くしてしまうでしょう。
しかし、私はこのチッポケな私でなく、あの御方に意識が向けられることにより、この私だけからは絶対に導き出されないような、より深み、リアルに感じられる"自己"を見い出すことが出来るのです。
正しく"見えざる導師"が顕わになることは、真我の実現につながるようなのです。
この御方はかく導くもの...導師に他ならないのです。より深く、リアルな自己に導かれるということは、思われた自分に纏わる思いから離れられるということです。
これは、自分からは思考との同一化から抜け出すことは至難なことであり、導師としてこの御方が立ち上ることにより開かれることなのです。
それは愛、平安というこれ以上無い逆説的"強制力"によって...
私はラマナ.マハルシの言葉を借りて、"神は導師であり、真我である"ことに全的に頷かざるを得ません。
このことは、私自身あの御方と出会った(再会した?)時、目の当たりにしているのです。
自分のことも、神のことも思われた自分からは決して分からない...しかし、自己を超えたものにあって分かっても、分からなくても安らぐことが出来る...これが不毛な戦いからの決着点なのです。
これはあくまで、私が感じていることを言っているまでであるのは言うまでもありません。
あなたはあなたが感じて、確かめてみる他ありません。あなたの神、最愛なるものにに聞いて、ゆだねるしかないでしょう。
それはあなたの魂を揺さぶらざるにおかないでしょう。
これは誰のことじゃない、私自身がそうしていることなのですi
意識が向くとか、向いちゃうとか言うのはそういうことなのです。それをあの方法とかこの教えとか、なんのかんのと...ごくろうさんなこったi
大本の神の出現は、思いがけないところにやって来る...傍観視している人間には永久に分からないだろう...それは我が身の足元からやって来るのですi
誰かが"自分というものは無いんです"と言おうが、そう考えている自分を通して...中には"そうなんだi"と得心してしまう人も居るかも知れませんが、大概は?のまま、自分の考えの中に取り込まれるだけでしょう。
こういうことはいくら考えたって分かりゃしないのです。言っている人間が分かって言ってるか、どうかも。ただミもフタもないことを言っていることだけは分かります。
このことにしろ、"何で自分は生きているのか?"、"人生の意味とは?"、"スピを探求する意味は?"、"どこにその帰着点があるのか?"
そうです。いくら思われた自分が考え、どう結論を出そうとしても(思われた自分がそうしたいのです)、何処にもたどり着けないことなのです。
そのことに気付くこと自体がある意味の悟りと言ってもいいでしょう。
古来より様々な宗教で"空"とか"無"とか"己を空しくせよ"、"神にゆだねよ"と説かれ続けてきたのか? 私はやっと分からされた気がします。
自分を表に出したままでは、あの御方が表に出られないからです。絶えずあーでもない、こーでもないと思い巡らせ、ついには思いのガンジガラメに絡まれてしまうことは、あの御方の出口を塞いでしまうことなのです。
自我というこの世の王が、生きる上で真っ先に知らねばならないものを押し込め、それに成り代わって支配する世界。この世界が如何に"がらんどう"のように、いつ脆くも崩れ去ってしまうように映るのも自明なことではないかi
しかし、その空に、無になろうとする試みも又、為そうとする自己によって、容易に自我に取り込まれる要因になってきたのですが...
これはどこまでもあの御方の自己顕現の成せることなのでしょう。
私はあの御方とここで言っていますが、それが自分の外に、別に居る神、あるいは守護霊のような存在という風に囚われると、主体性の無い依存的心情を強くしてしまうでしょう。
しかし、私はこのチッポケな私でなく、あの御方に意識が向けられることにより、この私だけからは絶対に導き出されないような、より深み、リアルに感じられる"自己"を見い出すことが出来るのです。
正しく"見えざる導師"が顕わになることは、真我の実現につながるようなのです。
この御方はかく導くもの...導師に他ならないのです。より深く、リアルな自己に導かれるということは、思われた自分に纏わる思いから離れられるということです。
これは、自分からは思考との同一化から抜け出すことは至難なことであり、導師としてこの御方が立ち上ることにより開かれることなのです。
それは愛、平安というこれ以上無い逆説的"強制力"によって...
私はラマナ.マハルシの言葉を借りて、"神は導師であり、真我である"ことに全的に頷かざるを得ません。
このことは、私自身あの御方と出会った(再会した?)時、目の当たりにしているのです。
自分のことも、神のことも思われた自分からは決して分からない...しかし、自己を超えたものにあって分かっても、分からなくても安らぐことが出来る...これが不毛な戦いからの決着点なのです。
これはあくまで、私が感じていることを言っているまでであるのは言うまでもありません。
あなたはあなたが感じて、確かめてみる他ありません。あなたの神、最愛なるものにに聞いて、ゆだねるしかないでしょう。
それはあなたの魂を揺さぶらざるにおかないでしょう。
これは誰のことじゃない、私自身がそうしていることなのですi
意識が向くとか、向いちゃうとか言うのはそういうことなのです。それをあの方法とかこの教えとか、なんのかんのと...ごくろうさんなこったi
大本の神の出現は、思いがけないところにやって来る...傍観視している人間には永久に分からないだろう...それは我が身の足元からやって来るのですi
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