ノンデュアリティなど、悟り系スピでは“人間は元々悟っている、神と一つなんだ“、などと説いています。
これは昔、いわゆる光明思想を看板に、“人間の実相は、完全円満、神と一つ、病も罪も本来無し...“などと、大上段に説いていた宗教と似ているようですが、こういう言葉を聞いてあなたは本当にそういうことを感じるでしょうか?
悟ったような先生がそう言っているんだからと、そう信じよう、思おうとすることが先走り、実際の自分の感じ方はどっかに押し込めてしまうのではないでしょうか?
これは、魂に対する冒涜とも言える、誤魔化し、裏切りではないですか?
だから私は、いつも神的な現臨感というものを強調しているのです。
思いを超えたものと共にある、それの中にあるという感じ...そういう具体的な感覚を通して導かれなければ、いつまでも観念世界から抜け出すことが出来ません。
そして、“もう悟っているんだ!“、という自分の思いの中で決着してしまい、現実に実相?に目覚める道は永久に閉ざされるかもしれないのです。これは本当に罪なこととは思いませんか?!
逆に言えば、神的な現臨にあって、その導きによって、“元々我々は悟っている、神と一体なんだ!“、ということに目覚めるかもしれない...というかある意味、そのこと自体が言葉の奥のその響きにつながっているとも言えるのですが...とにかくあなたの思いで決めないで、あなた自身、あなたの神に尋ねるべきなのです!
その響きは、ある強い想起と共にある。...それは遠い、遠い昔、神と一つになっていた、楽園生活のことかもしれません。(感じ方は様々でしょうが)
その神はずっと、表層的な思念によって、根の底のような暗い世界に押し込められていた。...
ここで想起というのは、そのものが表に顕わになることでなくてなんであろう!
会い難きものに、出会えた!
神、本来の私、最愛なるものとの出会い!
ここで、思い、感じて頂きたいことは、もし楽園生活が失われていなかったら、その出会いも目覚めも無く、いや神がどうゆうもので、自分が何ものか、ということさえ分からなかったでろう、ということなのです。
勿論、今現実に目にしている世の中の混迷、不調和も、人生におけるあらゆる苦しみも悲しみも無かったでしょう。
しかし、私は現にこのバカバカしくも、幻想に満ちたこの世界に生まれ出ちゃったのです!
これは、神の意志だったのでしょうか?...そうかもしれない...
私には、その神との出会い、神と一つになることへの憧憬、気付きの無い人生など全く考えられません!
それは、愛、平安というものがどういうものか分からない、ということと同じです。
又、当然の如く何でこんなことに!...と不自由極まりない人生の辛酸も舐めてますよ!
だけど、愛、幸福に与ることに代えられるだろうか?...そういう人生は考えられないと言っているのです!
私は自由に思い、感じたい!...楽園生活でこの思いが芽生えたら、多分私はその世界を支配しているであろう神に直訴するか、クーデターを企てるかもしれません。
(神よ、あなたはこの私の自立を待ち望み、そして自ら御身を隠したもうたのか?!)
又、この不条理、不調和極まりない現実にあって、悟りとか言うより、神への、神と一つになることへの希求はやむことが無いでしょう。
誰が何と言おうと...私の自由だ!
神が表に現れる!...考えてみられよ!、それは自由の下になされるのではないか!
神の自由は私の自由!
現臨にあって、私は本源的に自由なのです。
だから、神でもないのに、予め決められたようなこと言う人間の言葉などで、自由な感性が押し込められてたまるかってんです!
これは昔、いわゆる光明思想を看板に、“人間の実相は、完全円満、神と一つ、病も罪も本来無し...“などと、大上段に説いていた宗教と似ているようですが、こういう言葉を聞いてあなたは本当にそういうことを感じるでしょうか?
悟ったような先生がそう言っているんだからと、そう信じよう、思おうとすることが先走り、実際の自分の感じ方はどっかに押し込めてしまうのではないでしょうか?
これは、魂に対する冒涜とも言える、誤魔化し、裏切りではないですか?
だから私は、いつも神的な現臨感というものを強調しているのです。
思いを超えたものと共にある、それの中にあるという感じ...そういう具体的な感覚を通して導かれなければ、いつまでも観念世界から抜け出すことが出来ません。
そして、“もう悟っているんだ!“、という自分の思いの中で決着してしまい、現実に実相?に目覚める道は永久に閉ざされるかもしれないのです。これは本当に罪なこととは思いませんか?!
逆に言えば、神的な現臨にあって、その導きによって、“元々我々は悟っている、神と一体なんだ!“、ということに目覚めるかもしれない...というかある意味、そのこと自体が言葉の奥のその響きにつながっているとも言えるのですが...とにかくあなたの思いで決めないで、あなた自身、あなたの神に尋ねるべきなのです!
その響きは、ある強い想起と共にある。...それは遠い、遠い昔、神と一つになっていた、楽園生活のことかもしれません。(感じ方は様々でしょうが)
その神はずっと、表層的な思念によって、根の底のような暗い世界に押し込められていた。...
ここで想起というのは、そのものが表に顕わになることでなくてなんであろう!
会い難きものに、出会えた!
神、本来の私、最愛なるものとの出会い!
ここで、思い、感じて頂きたいことは、もし楽園生活が失われていなかったら、その出会いも目覚めも無く、いや神がどうゆうもので、自分が何ものか、ということさえ分からなかったでろう、ということなのです。
勿論、今現実に目にしている世の中の混迷、不調和も、人生におけるあらゆる苦しみも悲しみも無かったでしょう。
しかし、私は現にこのバカバカしくも、幻想に満ちたこの世界に生まれ出ちゃったのです!
これは、神の意志だったのでしょうか?...そうかもしれない...
私には、その神との出会い、神と一つになることへの憧憬、気付きの無い人生など全く考えられません!
それは、愛、平安というものがどういうものか分からない、ということと同じです。
又、当然の如く何でこんなことに!...と不自由極まりない人生の辛酸も舐めてますよ!
だけど、愛、幸福に与ることに代えられるだろうか?...そういう人生は考えられないと言っているのです!
私は自由に思い、感じたい!...楽園生活でこの思いが芽生えたら、多分私はその世界を支配しているであろう神に直訴するか、クーデターを企てるかもしれません。
(神よ、あなたはこの私の自立を待ち望み、そして自ら御身を隠したもうたのか?!)
又、この不条理、不調和極まりない現実にあって、悟りとか言うより、神への、神と一つになることへの希求はやむことが無いでしょう。
誰が何と言おうと...私の自由だ!
神が表に現れる!...考えてみられよ!、それは自由の下になされるのではないか!
神の自由は私の自由!
現臨にあって、私は本源的に自由なのです。
だから、神でもないのに、予め決められたようなこと言う人間の言葉などで、自由な感性が押し込められてたまるかってんです!
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