人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個と普遍の覚醒

2020-01-09 11:59:13 | 覚醒
多くのノンデュアリティでは、"時間というものは元々無い"という説き方をしています。過去も未来も無いのだと。
従って、その界隈では2012年が過ぎても、今なお根強く信じられている所謂アセンション(これはこの世の終わりまで続くのか?、その関連の人たちは、"今年が大きな節目の時を迎える..."、と言っているようですが、う~ん、そうかな?)のこととか、地上天国の実現、あるいは世界の滅亡といった予言的なものには触れないのが普通です。
そして"今、ここにあるのが幸福なことで、完璧で、未来に起こるであろうようなことは幻想に過ぎない"、などと言ったりするのです。
私はその教えにハマりかけていた時、(例によって)そう思おうとするものの、どうしても心から思えない、感じられないものがあったのです。
(ていうか...これは、極めてあったり前のことを言ってますよね? 私はああいう特殊な人になろうとしていたのです。だって、それが常に悟った人のステータスのように言われていたから...ただ私のエゴマインドを擽られていただけという、じっつにイタイ話ですi)
これは、あの至福に与った時でもそうだったのです。私がそれに与ったとしても、心からそう感じさせない、体が頷いてくれないものがある...
それは私の見ている世界はそのように映っていないからです。
というより、この我々の現実世界とは、まんまその世界の裏返しではないかi
この意味は、実はその時垣間見せられた世界というか、意識状態に隠されていたようです。
"私は一コの私だけで生きているのでは無かったi ...私は私のままで、あらゆる他己とのつながりにおいて生きているのだった..."
これがこの世には求むべくもない、普遍世界というものの内実なのでしょう。
普遍というのは、私という私性無しでは決して認識出来るものではありません。だからノンデュアリティで言われるような、全体というもの、"全体しかない"、という言い回しにはどうしても頷くことが出来ません。
たとえ私が悟境に達し、救われたとしても私における、このつながりにおけるこの現実世界は如何?
個々の悟りや救いがあったとしても、それは所詮、"かたちんば"、不十分なものでしかないのではあるまいか? いや個が個のままからそれを求め、得られると思うこと自体が錯覚なのではあるまいか?
私は、"私は真の悟りを得た!"と自認する自称覚者たちにこう言ってみたいです。
"誰も真の悟りを得ることは出来ない!  何故ならば我々の世界はかくのごとくあるからだi"、と。
では、個的なものと、普遍的なものとが結び付いた、全一的な世界ごとの覚醒ともいうべきもの(これが神の国、地上天国の実現を映し出す)があるのでしょうか?
それは...神のみぞ知るところでしょう。
他の神の言葉に迷わされてはならない、あなたの神に聞くしかない...。
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