私が日頃、精神的目覚めや意識の変容といったことについて、基本的に感じていることを改めて書いてみます。とても大事なことなので...。
"思いを超える"、ということ、そうでなければ、そういうことに与ることは出来ない、といつも言っています。
これは、誤解し勝ちなことですが、自分"が"思いを超えるということではありません。
自分が...、ということは、"自分の思いから"、ということに他ならないのですから...
中には断食とか絶食とか、色々な修行、メソッドに取り組み、一時的に思いから離れることもあるかもしれません。
だけど、"自分で思いを超えた"、という念はずっとあるんじゃないですか?
これ、自分の思いから出発して、地球を一周して、又そこに戻ってくるようなことじゃないですか?
そこで、"自分は目覚めた、悟ったi"、と錯覚したりして...どこまでも主我的なことから抜けきれず、その自覚も無いまま、自我がますます肥大化することにもなりかねなくなるのです。
こういうことは、その目覚める主体というもの、何が目覚めるのか、ということが明らかになっていないところからくるのでしょう。
思われた自分が目覚めるということではない...これは言い方は微妙ですが、ここの理解の在り方次第で、天と地ほどの開きが出てくるようなことなのです。
して、自分が感じた通りのことを有り体に言えば、"自分を超えたものが目覚める"、ということになるでしょうか?
表層意識に隠れていた、自我性を超えた意識が顕わになる、ということ...元々思いを超えたものが表れる...だから自分が思いを超えようとトライするのは、一寸ズレたことと言わざるを得ません。
要するに、業生の自分が目覚めたり、悟ったりする訳じゃないということです。
そして、この超個的な私の顕現は、何らかの神的なものが臨むような機縁によって、あたかも磁石に、他の鉱物は置かれたまま、鉄分のみが引き寄せられるように、その臨在と一つにされてゆくのです。
この超個的なハタラキの前には、思われた個我意識は場所を譲らずに居れなくなる...主体の転換がなされる...そういう劇的変容の様を思われた私は、為すすべもなく、傍観者のように見てるより他ありません。
自分が...という思いが強いということは、その思いを超えたものの表出する通路を塞ぐことに他なりません。
意識を常に開いていることが如何に大切かが知られるでしょう。
内なる神性というもの、それは思われた私以上の、私そのものに違いありません。
しかし、思われた私にとっては、絶対他者であることも確かなことなのでしょう。
"思いを超える"、ということ、そうでなければ、そういうことに与ることは出来ない、といつも言っています。
これは、誤解し勝ちなことですが、自分"が"思いを超えるということではありません。
自分が...、ということは、"自分の思いから"、ということに他ならないのですから...
中には断食とか絶食とか、色々な修行、メソッドに取り組み、一時的に思いから離れることもあるかもしれません。
だけど、"自分で思いを超えた"、という念はずっとあるんじゃないですか?
これ、自分の思いから出発して、地球を一周して、又そこに戻ってくるようなことじゃないですか?
そこで、"自分は目覚めた、悟ったi"、と錯覚したりして...どこまでも主我的なことから抜けきれず、その自覚も無いまま、自我がますます肥大化することにもなりかねなくなるのです。
こういうことは、その目覚める主体というもの、何が目覚めるのか、ということが明らかになっていないところからくるのでしょう。
思われた自分が目覚めるということではない...これは言い方は微妙ですが、ここの理解の在り方次第で、天と地ほどの開きが出てくるようなことなのです。
して、自分が感じた通りのことを有り体に言えば、"自分を超えたものが目覚める"、ということになるでしょうか?
表層意識に隠れていた、自我性を超えた意識が顕わになる、ということ...元々思いを超えたものが表れる...だから自分が思いを超えようとトライするのは、一寸ズレたことと言わざるを得ません。
要するに、業生の自分が目覚めたり、悟ったりする訳じゃないということです。
そして、この超個的な私の顕現は、何らかの神的なものが臨むような機縁によって、あたかも磁石に、他の鉱物は置かれたまま、鉄分のみが引き寄せられるように、その臨在と一つにされてゆくのです。
この超個的なハタラキの前には、思われた個我意識は場所を譲らずに居れなくなる...主体の転換がなされる...そういう劇的変容の様を思われた私は、為すすべもなく、傍観者のように見てるより他ありません。
自分が...という思いが強いということは、その思いを超えたものの表出する通路を塞ぐことに他なりません。
意識を常に開いていることが如何に大切かが知られるでしょう。
内なる神性というもの、それは思われた私以上の、私そのものに違いありません。
しかし、思われた私にとっては、絶対他者であることも確かなことなのでしょう。
自分が目覚めるのではなく、「あたかも磁石に、他の鉱物は置かれたまま、鉄分のみが引き寄せられるように」ですか。
頭ではわかりますが…。
どのような努力(これも自我ですが、それでも)をしたら目覚めることが出来るのだろうかと、あれこれしていますが、ひたすら「待つ」ことでしょうか。
そういうことを重ねてゆくうちに、段々機縁が塾してゆくのでしょう。
思いを先走らさないで、中からの自然な表れを待つことは大切でしょうね。
コメントへのお返事をありがとうございます。
絶えず神を想わないことはないくらい想ってます(求めています)ので、なかなか何の体験もなく確信が持てないことは辛いものがあります。
(自我がですが)
でも、いつかきっとこの魂の憧れや願いは叶うと信じて生きていきます。
そうでないととてもじゃないですけれど、この世を生きて行くことは出来ない気さえします。
私はそう感じさせるものに導かれて来たのです。
神との愛は決して一方通行のものではないでしょう。
そして、神の愛を感じたなら、願いは叶えられているも同然でしょう。
そうなれば、たとえどんなことが有っても生きて行けるでしょう。
度々ありがとうございます。
そのようにやってみます。