私がこれまで悟りに至るであろうとされる、特定の瞑想などの修行法に依ってこなかったのは、単純に意識がそういう方に向かなかったからです。
やり方が具体的に書かれてあるものに接しても、読もうという気すら起こって来ません。
ただ、悟りというか、言い方は様々ですが、そういうものを求める気持ちは無性にあったのです。
昭和57年頃は、特にその思いがやみがたく強まっていました。
これには、その前年頃から手島郁郎先生の本が続々と出版されるようになり、又時を同じくして小池辰雄先生の著作集も刊行中で、出される度に求めて読んでいたことが大きい要因なのでした。
私は、そこに"聖霊のバプテスマ"を受ける道を見い出していたのです。つまり修行による悟りというより、そっちに意識が向けられており、悟り、覚醒の道というものは、聖霊というか、神的な恩寵によるものという風に捉えられていたのです。
そこにはやり方なんて何も示されておりません。ダイレクトに惹き付けられるものを感じていたのです。
とはいえ、そういう求める心とは裏腹に、数年前に初めて小池先生の集会を訪れた時に抱いた、あのフツーでない空気に怖じ気づいたこと、又自分の中で、キリスト教という枠にはまりたくなかったことなどが払拭出来ず、一歩踏み込むことは躊躇していたのです。
しかし、求め心は収まらない...この時、その数年前に芽生えた、あのじんじんしてくる感覚は失われていました。これがそういう思いに拍車をかけていたのは間違いありません。
そんな折、その年の今頃の季節、書店で中野裕道という人の「ヨーガ霊動法」という本が目にとまり、むさぼるように読んだことがありました。
この本は、従来の修行系の"悟りに至る道"でなく、意志的努力に依らない、無為的、神的恩寵などをベースにした、国内の、あるいは国外から伝えられた、そうした道の数々を紹介した、おそらくこれまで類書のない、画期的な書物と言えるものです。
そこでは、我が国に古来より伝わる鎮魂法、インドネシアに発祥したスブドなる団体に伝わるラティハンという修練、密教の知られざる観法、民間に健康法として伝えられた自動運動などが取り上げられ、それらには一様に無為的な霊動が誘起されるのが特色で、一定の方法というものを超越して、根底は一つのものに感じられる、とある...
実に超宗派的なものを目指していた(?)私には、打ってつけのもののように感じられたのでした。
じんじんしてくる感じとは何であろう? ある種のバイブレーション、名状し難いものであるのは勿論ですが、神的エネルギー、ハタラキ的なものに他なりません。
"その不可知の力に与れることが出来さえすればいいのだi"
そうして求道精神が数年ぶりに旺盛になり、あちこち門を叩こうということになったのですが...その試みはことごとく空振りに終わったのでした。
連絡無しに行ったことが問題だったのですが、鎮魂法を伝える道場は、今ではやっていないとのこと、スブドのオープン(ラティハン入門)の会場へ行っても誰も出て来ず"閉"店しているよう...霊動による健康法は電話で連絡しましたが、「あなたはどこが悪いのですか?」と訊かれ、「どこも悪くない(精神は?)のでいいです」と答えてしまう始末...
そうしているうち、何だか神から見放されたような気分になってきました。
数年前にあった、何かに導かれている、意識が開かれてゆく感じが少しも感じられてきません。
結局、その年は、満たされない気持ちを抱きつつ、いつしかそれも諦めからか、終息していったのでした...。
やり方が具体的に書かれてあるものに接しても、読もうという気すら起こって来ません。
ただ、悟りというか、言い方は様々ですが、そういうものを求める気持ちは無性にあったのです。
昭和57年頃は、特にその思いがやみがたく強まっていました。
これには、その前年頃から手島郁郎先生の本が続々と出版されるようになり、又時を同じくして小池辰雄先生の著作集も刊行中で、出される度に求めて読んでいたことが大きい要因なのでした。
私は、そこに"聖霊のバプテスマ"を受ける道を見い出していたのです。つまり修行による悟りというより、そっちに意識が向けられており、悟り、覚醒の道というものは、聖霊というか、神的な恩寵によるものという風に捉えられていたのです。
そこにはやり方なんて何も示されておりません。ダイレクトに惹き付けられるものを感じていたのです。
とはいえ、そういう求める心とは裏腹に、数年前に初めて小池先生の集会を訪れた時に抱いた、あのフツーでない空気に怖じ気づいたこと、又自分の中で、キリスト教という枠にはまりたくなかったことなどが払拭出来ず、一歩踏み込むことは躊躇していたのです。
しかし、求め心は収まらない...この時、その数年前に芽生えた、あのじんじんしてくる感覚は失われていました。これがそういう思いに拍車をかけていたのは間違いありません。
そんな折、その年の今頃の季節、書店で中野裕道という人の「ヨーガ霊動法」という本が目にとまり、むさぼるように読んだことがありました。
この本は、従来の修行系の"悟りに至る道"でなく、意志的努力に依らない、無為的、神的恩寵などをベースにした、国内の、あるいは国外から伝えられた、そうした道の数々を紹介した、おそらくこれまで類書のない、画期的な書物と言えるものです。
そこでは、我が国に古来より伝わる鎮魂法、インドネシアに発祥したスブドなる団体に伝わるラティハンという修練、密教の知られざる観法、民間に健康法として伝えられた自動運動などが取り上げられ、それらには一様に無為的な霊動が誘起されるのが特色で、一定の方法というものを超越して、根底は一つのものに感じられる、とある...
実に超宗派的なものを目指していた(?)私には、打ってつけのもののように感じられたのでした。
じんじんしてくる感じとは何であろう? ある種のバイブレーション、名状し難いものであるのは勿論ですが、神的エネルギー、ハタラキ的なものに他なりません。
"その不可知の力に与れることが出来さえすればいいのだi"
そうして求道精神が数年ぶりに旺盛になり、あちこち門を叩こうということになったのですが...その試みはことごとく空振りに終わったのでした。
連絡無しに行ったことが問題だったのですが、鎮魂法を伝える道場は、今ではやっていないとのこと、スブドのオープン(ラティハン入門)の会場へ行っても誰も出て来ず"閉"店しているよう...霊動による健康法は電話で連絡しましたが、「あなたはどこが悪いのですか?」と訊かれ、「どこも悪くない(精神は?)のでいいです」と答えてしまう始末...
そうしているうち、何だか神から見放されたような気分になってきました。
数年前にあった、何かに導かれている、意識が開かれてゆく感じが少しも感じられてきません。
結局、その年は、満たされない気持ちを抱きつつ、いつしかそれも諦めからか、終息していったのでした...。
「人類永遠の謎を光で照らす」と言う本をテクネ社から建部さんが出版され、アマゾンで買えるとの事です(いやあ宣伝になりましたが…)
神と魂の概念が十七世紀のガリレオ裁判から回復してないとか、グローバリズムを支える現代科学の致命的な欠陥に就いて書いておられるそうです
93歳、間質性肺炎で酸素吸入しながら、書かれた入魂の書と言えましょうか
読んでみたいですね。
スブド創生期、その進展にやる気満々だったリンサン...あまり乗り気でなかった?建部さん...あの集団にずっと一線で活躍し続けたということは、ホントにスゴいことだと思いますよ。すぐに脱線した私からすれば...