大本教の宣教の基幹となっているモチーフは、”神代の時代、この世をかまっていた、元の神が中途の神によって根の国に落とされ、隠退させられていたが、時節が参り、表に現れることになり、地上天国、みろくの世を開いてゆく...”、というものでした。
この元の神、国祖「国常立之尊」ご隠退の模様は、出口王仁三郎聖師の「霊界物語」の第四巻に、神というより、あまりに人間的な在り様で描かれているのです。
そこでは、主流(保守?)派、国祖系神々と反主流(革新?)派、常世彦系神々による、”話し合い”(常世彦によって仕組まれたもので、”常世会議”と呼ばれる)が繰り広げられていました。
これが実にまるで、現代の国会の会議さながらの、互いの思惑を秘めた陰謀が交錯し、”化かし合い”めいた様相で行われるのです。
そして、暗雲立ち込める中、主流派の起死回生の一手により、見事常世彦一派の野望を挫いたかに思われたが...
それは、謀略に対する謀略でしかなかったのです。国祖はこれに直接関与しておらず、下臣の神の所業とはいえ、天の大神(天のご三体の神、天のみろくとも言われる)の御心に触れることになり、やむなく隠退めさるることになったのです。つまり直接それを促したのは、天の大神だったということです。
ただし、時節が巡って国祖が世に出られる暁には、大神がその補佐として現れるということを約されていたのです。
この神代のお話の真相は勿論、”真の神様”に聞かないと分かりません。
私は、出口なお刀自の「お筆先」にもあるように、ずっと正神が邪神によって押し込められた、というような感想を持っていたのですが!...
最近、「あらすじで読む霊界物語」(文芸社文庫)という一冊で、あのベラボーに長い霊界物語を読んだような錯覚をしてしまうような本を読んだのですが、主たる執筆者の飯塚弘明氏は、この模様を現代感覚に合わせるように、厳格な律法を重んじる国祖の政策は封建的なもので、反主流派は民主的なものと考えられる、と説明されていました。
なるほど!...神代の物語でも、自分の身に置き換えてみる必要があるのですね。少なくとも霊界物語はそうでなくては、何も読んだ気などしてきません。
民主化が叫ばれるところ、自由への希求がある!...律法が何だ!、我々は神からも自由なのだ!
そうして、我々の祖先?は、元の神を無きものにしようとしたのでしょうか?
そうして又、そのツケでか、この神無き、超越的なものへと開かれることの無い、あまりに人間的な世界の行き詰まり、混迷、不調和の中に喘いでいる次第という訳です。(神代の物語が無かったとしても、それが我々の歴史的歩みであるのは言うまでもない)
つまり人間の、人間のための自由は、本当の自由では無かった!
では、我々は再び神の厳格なる統治に隷従されるようになるのか?
いいや、私は如何に天則違反の罪を着せられようと、神にあって自由が失われるなら、そんな暴君的神を受け入れることは出来ないですね!
元の神が真の神ではないのか?
私は神かけてこう叫びたい!...我々は一度も真の神を拝することなど無かったのだ!...私は私のすべてを持って望みたい!...
どうか、真の神よ!、あなたを表し下さい!、ここに臨んで下さい!”、と。
確か「お筆先」に、「天のみろく様が真の神じゃぞよ」と示されていたと思ったが...
この元の神、国祖「国常立之尊」ご隠退の模様は、出口王仁三郎聖師の「霊界物語」の第四巻に、神というより、あまりに人間的な在り様で描かれているのです。
そこでは、主流(保守?)派、国祖系神々と反主流(革新?)派、常世彦系神々による、”話し合い”(常世彦によって仕組まれたもので、”常世会議”と呼ばれる)が繰り広げられていました。
これが実にまるで、現代の国会の会議さながらの、互いの思惑を秘めた陰謀が交錯し、”化かし合い”めいた様相で行われるのです。
そして、暗雲立ち込める中、主流派の起死回生の一手により、見事常世彦一派の野望を挫いたかに思われたが...
それは、謀略に対する謀略でしかなかったのです。国祖はこれに直接関与しておらず、下臣の神の所業とはいえ、天の大神(天のご三体の神、天のみろくとも言われる)の御心に触れることになり、やむなく隠退めさるることになったのです。つまり直接それを促したのは、天の大神だったということです。
ただし、時節が巡って国祖が世に出られる暁には、大神がその補佐として現れるということを約されていたのです。
この神代のお話の真相は勿論、”真の神様”に聞かないと分かりません。
私は、出口なお刀自の「お筆先」にもあるように、ずっと正神が邪神によって押し込められた、というような感想を持っていたのですが!...
最近、「あらすじで読む霊界物語」(文芸社文庫)という一冊で、あのベラボーに長い霊界物語を読んだような錯覚をしてしまうような本を読んだのですが、主たる執筆者の飯塚弘明氏は、この模様を現代感覚に合わせるように、厳格な律法を重んじる国祖の政策は封建的なもので、反主流派は民主的なものと考えられる、と説明されていました。
なるほど!...神代の物語でも、自分の身に置き換えてみる必要があるのですね。少なくとも霊界物語はそうでなくては、何も読んだ気などしてきません。
民主化が叫ばれるところ、自由への希求がある!...律法が何だ!、我々は神からも自由なのだ!
そうして、我々の祖先?は、元の神を無きものにしようとしたのでしょうか?
そうして又、そのツケでか、この神無き、超越的なものへと開かれることの無い、あまりに人間的な世界の行き詰まり、混迷、不調和の中に喘いでいる次第という訳です。(神代の物語が無かったとしても、それが我々の歴史的歩みであるのは言うまでもない)
つまり人間の、人間のための自由は、本当の自由では無かった!
では、我々は再び神の厳格なる統治に隷従されるようになるのか?
いいや、私は如何に天則違反の罪を着せられようと、神にあって自由が失われるなら、そんな暴君的神を受け入れることは出来ないですね!
元の神が真の神ではないのか?
私は神かけてこう叫びたい!...我々は一度も真の神を拝することなど無かったのだ!...私は私のすべてを持って望みたい!...
どうか、真の神よ!、あなたを表し下さい!、ここに臨んで下さい!”、と。
確か「お筆先」に、「天のみろく様が真の神じゃぞよ」と示されていたと思ったが...
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