人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

新しい天国

2023-11-04 10:10:32 | 哲学・思想
「我々は楽園を追放されたことが人間にとって如何に大きな意味を持っているか認めなければならない。人間が自由というものをまだ知らなかった、元の天国から、自由を知った新しい天国に移ることはどういうことか、その意味を知らなければならない」(ベルジャーエフ)

聖書の楽園神話に照らせば、楽園ではすべて神から与えられるまま、如何なる争い、障りもなく、何”不自由”もなく生活していたとのことです。
”いや、待てよ!”...神の定めた通りなのであれば、どこに自由などあるのか?、自由というものが分からなければ、不自由もヘッタクレもないではないか?
そうです。我々は自由になることと引き換えに楽園を追放されてしまったのです。
逆説的ですが、もし我々に自由というものが無かったとしたら、そこに天国的喜びを見い出すことが出来るでしょうか?
私は自由の無い世界など考えたことも、想像したこともありません。ましてそういう世界が永遠に続くことなど!...これ又あまりに逆説的ですが、それは永遠の地獄のようにも思えてきます。
”そうだ!”...そうなのです!、だから私の周りも中も地獄の様相が写し出されているのです!
地獄は、まさに我々の自由意志によって造り出されたと言えるでしょう。
そういう客観的な世界が実在するかどうかはともかく、観念的な主観が支配しているのは間違いないでしょう。それは善悪の観念から来る...善悪を知る木の実を食べたことから始ったのですから。
だから、もはや善悪、地獄を知らない幼子のような心性を失ってしまった我々は、神代の昔の楽園を回復することは出来ない!...逆に言えば(何回、こういう表現を使うことか!)もし、元の楽園に戻れたとして、我々の、又一人一人の歴史の苦しみ、悲しみとは一体何だったのだろう?、ということになるでしょう。
それでも、あらゆるものは、進展、創造されてゆく...
私が楽園に戻ることは出来ないと言ったのは、元のまま、そのままの再生ということは不可能だ、と言ったまでです。
我々は善悪を知る木の実の味をしめすぎている、地獄の門を通っている、そして失ったものはあまりにも大きい...天国の門を開く力など残っていないようにも感じます。
しかし、その門は神が自ら開き、自ら我々に顕わになるのではないでしょうか?
それが、一体どのような有り様でこの現実世界で展開されるのか?...私には分かりません!
いや、私はその予感は持ち続けていますが、来るのかどうかも本当は分からないのです。真の神に聞かなければ!
もし、最初からそれが定められているのなら、それは自由を知らない元の天国生活と同じではありませんか?
誰よりもこのことを力説したベルジャーエフが言うように、新しい天国は、人類がかつて経験したことが無いのは勿論、おそらくは神々も知らないであろう?、新たな創造過程によってもたらされるのでしょう。
そこには、すべてが予定されてはいない…未定なる自由にも開かれているだろう!
新しい天国を希求するかどうかは、あなたと私の自由なのです!
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